万年フール (2011/04/01・エイプリルフール)
「今日も一日頑張ろう!」
毎朝恒例の申し送りで、気紛れ院長が気紛れに顔を出して横から口を挟んだ。
北見にとっていくつかある、毎日やり過ごさなければならない事象のひとつだ。
下手なあしらいをすると、厄介なことになる。なるべく関わらないようにするのが一番の良作であるが、実の所、安田はさして面倒な相手ではない。彼は相手と自分の立場と状況を認識してくれる。相手にも自分にも余裕のある時でないとちょっかいを出して来ない。ただ、無駄な余暇にさえ気を付ければ良いだけで、こちらが熱心に仕事にかまけている間は大人しくしていると言っても良いかもしれない。
だが、
「きーたみ、せんせー」
こいつだ。
背後からの声に、胸中で呪いの言葉を毒づきながら振り返る。夜勤明けで帰宅できる開放感からか、頬の緩んだしまりのないテルの顔がさらににやついていると言う光景は、これから激務を迎える北見にとってあまり有り難くない前置きだ。
とりあえず、北見はしっしと手で追い払った。
「もう帰っていいぞ」
「北見先生に、告白することがあります!」
できれば聞きたくないのだが、前述の通り、これは北見が毎日やり過ごさなければならない事象であり、何よりも一番厄介な相手なのだ。特に、こんな顔をしている時に与えられるストレスは計り知れない。
渋面で決意した北見は、身体ごと向き直って先を促す。
まあ、もともとこちらの意図にはお構いなしのテルだったが、北見が自分の話を聞いてくれる態勢になってくれたのは嬉しいらしい。小さなこどもが母親にするように顔を輝かせて、
「実はオレ、女の子だったんです!」
あー、今日はそうか、エイプリル・フールか。
例外なく突飛な発言が迸るテルに慣れてしまった自分に空しさを覚えつつ、予測もしない方向から投げられた剛速球を受け止められるようになった状況を喜ぶべきなのか、北見は悩んだ。まあ少なくとも、頭の体操にはなっている気はする。とりあえず、ここで何らかのリアクションをしてやらないと、頑なに意地になった挙句、逆恨みで何をされるか分かったものでなはい。
北見は、極力(無関心を胸の内に押し留めて)平静を装い、何の感情も篭らない声で呟いた。
「そうか、知らなかったな。
なら、結婚でもするか?」
「えっ!!?」
明らかに驚きの声を上げたのはテルだった。
何事かと見れば、さっきまでの楽しそうな表情から一転、はっきりと狼狽えた様子でおろおろとこちらを見上げている。その眼差しは北見に対してなぜか熱く注がれ、言葉にならない声を漏らす口元は微かな喜びを表し、どことなく緊張した頬は紅潮していた。
あれ? 北見が、何も考えずに投げ槍に吐いた言葉を脳内で反芻していると、テルは、女子高生のような仕草でもじもじと身動ぎする。
「あ……あの、そんな、いきなり……言われても……
その、嫌なんじゃなくっ、て、心の準備って言うか………」
…………あほだ。あほだこいつ。
呆れるよりも、北見は彼の将来が色々不安になってくる。
対応は間違っていなかったようだが、北見にとってもテルにとっても予想外の変化球にどう対応したら良いのか考えあぐねているうちに、先に居た堪れなくなったらしいテルが走り去っていく。
その背中をぼんやりと見送りつつ、これが後の面倒に繋がりませんように、と願わずにいられない北見だった。
追記。一週間くらいテルが(色んな意味で)しおらしかった。
えびチリ (2011/04/30)
北見の溜息を拾うように、テルはするりと傍らに寄った。
気付いた時には、彼にしては珍しく控えめに口元を引き締めて笑みを堪えているのが見えた。
「……どうした?」
就業の合間、持ち回りの往診から帰ってきたらしいテルと、医局で仕事を片付けている北見。他の者は全員出払っていて、HOTも入らないそんな平和な時間。
テルは辺りを気にするように見回してから、そっと囁くように声を潜めた。
「今日は、えびチリが食べたいなー……とか」
「………」
何を言い出すのかと、北見は胡乱な眼差しでテルを見遣る。
テルは曖昧に歪めた笑みを保ち続け、えびチリ、と小さな声で繰り返す。
北見の料理の腕前は、テルと出会って確実に磨かれた。
何せ、夕食を餌にテルを釣り上げて好き勝手にしてきたのだ。自然とレパートリーは広がるし、着実に腕も上がろうと言うもの。喜ぶところではなさそうだが、まあ、当の釣られるテルが大層喜んでいるようなのでそれで良しとしている。
『えびチリ、ね』
好き嫌いのないテルからのリクエストは、実は少ない。
献立は北見の気分で決めているし、苦情も一度もない。
テルと北見の関係は今でこそ落ち着いているが、馴れ初めから長い間、周囲が感じ取れるほど険悪で仕方がなかった。常に北見が強いる関係は、テルに相当の無理と負担を与えてきた。その反応は恐れと脅え以外の何者でもなかったし、北見もまた、そんなテルに苛立ちを隠してこなかった。
そう言った緊張が長らく続いていた制か、テルには未だ、北見への態度をどう変化させれば良いのか分からないところがあるらしい。
求めること望むことは勿論、訴えることも少ない。
献立をリクエストし出したのは少し前からだが、テルが求めているものに気付いたのは、ごくごく最近のことだ。
一月に一度か二度、テルの我が侭を叶えてやり、それが何度か続いたある日、学会の準備で追い詰められていた北見がテルの申し出をすげなく追い払ったことがある。
怒るでも、拗ねるでもなく、テルは悄然と肩を落として静かに引き下がった。苛立っていた北見に罪悪感を感じさせるほどの落胆ぶりに、テルが求めているものが食事の献立ではなかったことに気付いた。
北見の家で驚くほど大人しくしている子どもが欲しがったのは、
「時間かかるぞ」
「待ちます! 手伝うし!」
「家の台所を使い物にならなくさせる気か」
厭味にも負けずにわーいと喜ぶテルには、恐らく北見の声は聞こえていないだろう。
「良いからさっさと仕事に行け」
白紙のメモ用紙を投げつけて促すと、子どもは満面の笑みで駆け出していく。走るな、と怒鳴っても右から左に流れていくのはもうお約束だし、カートにぶつかる音さえ聞こえなければ許容範囲にしておいてやろう、と北見は寛大に作業に戻る。
ここのところ数ヶ月ほど、二人の休みが重なっていないこと。
仕事に追われていること。昼と夜とのすれ違いが多くて、あまり家に呼んでいないこと。
そんなことが続くと、テルは突然あれが食べたいこれが食べたいと言い出し、それを理由に北見の家に来たがった。
テルの感情がこちらに向けられていることを自覚した時、そしてその控えめな我が侭を受け入れた後に綻ぶ笑顔に、北見の枷が一つずつなくなっていくような気がした。脅えも不安も、今の彼からは感じないことも、北見の心を軽くしている。問題は。
「えびチリか……」
ここの所の同僚からのお誘いで、胃が疲れているところに来ての中華料理はさすがに厳しいと言うことだ。
黄昏時のその後 (2011/09/05・「黄昏時」蛇足)
小さな神を慰めるための花火大会はとても質素で、実に厳かだったと言っても良いのではないか。
そんな皮肉を投げかけようとした北見は、焼き鳥を口に運ぶのも忘れて天上の花に見入るテルの横顔にうっかり毒気を抜かれてしまった。
結局そのまま、空のとりどりの色に照らされる熱心な表情を追うのに夢中になっていたことに気づいたのは、花火大会終了の放送を聞いたテルから『綺麗だった』と満面の笑顔を向けられた時だった。
「そうか?」
「花火見るの久しぶりだったけど、あれ見ると、やっぱり日本人だなーって思うよな!」
北見は我に返ったことに気づかれたくなくて、白けた口調を装って誤魔化すが、テルは彼の些細な嘘など気づきもしないし、実際はどうでも良いように思える。とにかくこの感動の余韻に浸り、誰かに伝えることに必死なのだ。
「来月の祭の花火の方が、よっぽど派手だろう」
毎年、夏の終わりには盛大な市民祭が開催されていて、企業の虚栄心を満足させるだけの花火大会はまさに圧巻だ。祭が盛大であればあるほど、医者の仕事も増えるものだから、北見にとっては「HOTで忙しい夜」の認識しかない。
「それは去年見た! すっっっっごかったよなー!
今日のはなんてーか、控えめで良かった!」
テルの美徳は、その限りないポジティブ思考にあろうか。北見には、予算の少ない町内会の貧相な名前ばかりの花火大会だとしか評価できなかったが。たとえ期待に反した肩透かしな結果だったとても、テルは側面から見たものを手放しで褒める。さらにはそれが心からの賛辞なのだから、北見には眩しくさえ思えてしまうのだ。
見ものの花火が終わってしまうと、見物客は波が引くように帰路に散る。
途端に寂しくなる屋台の通りを眺めるテルの名残惜しそうな視線は、しっかりと焼きソバに注がれていた。通りを歩くだけでもカキ氷から唐揚げやらを買い込んでは、北見が心配になるほどの勢いで平らげていたと言うのに、この上なおも食べるつもりのテルに吐き気を催しながらも呆れてしまう。
結局こいつは色気よりも食い気なんだなと、北見は内心で嘆息を漏らす。そして胃と財布とどちらと相談しているのか、難しい顔でのテルを尻目に、焼きソバを一パック購入し、呆気に取られている彼の眼前に袋を突き出して受け取らせる。
「もう良いか?」と、半眼で渡された焼きソバを一瞥したあと、テルはなぜか目を輝かせた。
「りんご飴も!」
「それは自分で買え」
即答で却下した。
結局、りんご飴と綿菓子とイカ焼きを買わされた(財力が及ばなかったので立て替えさせられた)北見と、大収穫にご満悦のテルは人の波がすっかり引いた駐車場で足を止めていた。と言うのも、次から次へと収穫物を片付けてしまうテルに対して、北見が車中で物を食べることを禁止したからだ。
ここで食べずに家で食べろと叱る北見だったが、テルはどうしても祭の空気の中でうんぬんと、ここぞとばかりに意味不明な精神論を持ち出してくる。いや、精神論などおこがましい。ただの子どもの我侭だ。
とにかく、それならば焼きソバは駐車場で片付けろと植え込みの縁石に座らせて、北見はやることもなしに外灯の下で寂れた町並みを眺めていることにした。もうテルが物を食べる姿を見るのには飽きてしまっていたし、胸焼けすら覚えてしまったから仕方なしに。
時間も手伝ってか、町はすっかり静まり返っていた。
商店街の駐車場にも彼ら以外の気配もない。ただ、夏の夜にありがちな遠くの喧騒と、どこかで盛り上がっているらしい花火の音が生ぬるい風に運ばれてくるだけだ。
太陽が沈んだことで殺人的な日差しからは免れたとは言え、今日も寝苦しい熱帯夜なのは間違いなかろう。
じわじわと沸いて出るような汗が非常に不快だ。帰ったら真っ先にシャワーを、と決めた北見が視線を転じると、焼きソバを完食したテルが、腕に提げた空の容器に向かって合掌をしているところだった。
「ごちそうさまでした」
小さく漏らしたそれを苦い思いで聞きながら、北見は呼びかける。
「テル」
「はい?」
立ち上がって尻の汚れを叩いているテルだったが、北見には口の横を汚すソースの方が気になった。
残念ながら当人は気づいていないようなので、彼は思わずテルの顎を掴んで顔を上向かせる。
「!!!?」
さすがに驚いて目を見開くテルが反射的に逃げようと腰を退いたところで、顎を持つ手に力を込めて軽く押す。すると、後ろに退きかけていたテルの足は、押されたことに反発して前に踏ん張る。そうして、逃亡の機会を自ら絶ってしまったテルが引き攣った表情を浮かべると、北見はひそかにほくそ笑んだ。
診察台の上から逃げようとする犬か猫を縁で押せば、落とされまいと慌ててしがみついて来る、と言う話を試してみただけなのに、こんなにうまく成功するとは思っていなかった。まるで動物と同じ反応をすると笑う北見の気分はよくなった。
不安そうに見上げてくるテルの視線を避わして、北見は彼の口元を汚すソースを舐める。
テルが身体を跳ねてびくついても、今は北見の神経を苛立たせない。何しろ今はとても愉快だ。屋台の安っぽいソースの味も、汗で湿ってしょっぱいテルの肌も気にならない。
舌でソースを舐め取ってしまっても、名残惜しいと言わんばかりに北見はテルの口元を甘噛みまでする。そうなるともう唇への接触は当然だ。北見の手管にすっかり慣らされたテルは、愛撫からスライドしたキスに気づかずに受け入れさせられる。
この二人にとって、キスは北見が望む接触の中で一番大人しいものだ。
これより進むと、テルの意思は無視されてしまう。
北見らしからぬ柔らかな接触に浸っていると、強烈な熱にずるずると引きずりこまれる。そして、気づいた時には後戻りできない場所まで落とされていて、テルはもがくことも許されず、ただ北見のものにされるだけ。ともすれば乱暴とすら感じるほど強引にことを進めようとする北見に対して、テルはいつも我慢してきた。
その中で、心も体も痛みを伴わないキスは、我慢を強いられない唯一の行為だ。
それが今までの二人で、その関係はテルを酷く怯えさせ、北見の神経を酷く苛んだ。
しかし、そうした悪循環を断ち切った転機以降、テルの怯えは明らかになりを潜め、北見の苛立ちも薄らいだ。
テルにとってキスは、痛みを伴わない唯一の接触ではなくなった。
北見にとっても、行為に雪崩れ込む合図ではなくなったし、互いの我慢も要さなくなった。
これまでこじ開けていた口の中に、今は易々と舌を差し込める。ゆっくりと咥内を味わい、唇で甘噛みをすると切なげな溜息が北見の耳に届く。それを心地良い思いで聞いていると、シャツの胸元が強く掴まれ、足元を支えられなくなったテルが必死でしがみついているのが分かって、北見をさらに上機嫌にさせる。
「……は、…ン」
とうとう堪えきれなくなった声が漏れる頃に、北見はテルを解放してやった。
テルは夜目にも明らかに、頬を紅潮させて深呼吸をして気持ちを落ち着けている。シャツは掴ませたまま、唾液で汚れた口元を拭って、北見はまだ呆けているテルを見下ろす。
「それで、どうする?」
「…………?」
問いの意味が分からずに疑問符を浮かべていると、北見は彼の手に提げられているビニール袋を取り上げて、手近なゴミ箱に捨てに行く。困惑しているテルに、被せるように声を投げる。
「アパートに帰るのか、ウチに来るか」
ゴミを放り捨てて、またあの長い足を大股に、数歩で戻ってくる。
その短い間に答を用意しておけと言う意味を、テルはきちんと言外に読み取っている。
北見がテルに再び尋ねるまでもなく、彼は気恥ずかしそうに、けれど迷いのない瞳を輝かせて、夜には似つかわしくない声量で、
「北見の家!」
と騒いだものだから、直後に鉄拳が叩き落されたのは言うまでもない。
デリバリー その後 (2011/10/15・「デリバリー」蛇足)
いつもと違う雰囲気にテルは酷く怯えていた。
「……………」
夕食を咀嚼する口を黙々と動かしながらも、そっと窺う先の北見はやけに上機嫌だった。
他人から見れば、いつもと変わらぬ冷たさすら感じる仏頂面でしかないだろう。だが付き合いが濃いテルには、今の北見は鼻歌を始めてしまうのではないかと錯覚するほどに機嫌が良かった。そんな普段からのギャップがテルを酷く怯えさせていた。
「どうした?」
「いやっ……、何でも……」
さすがに不審な様子を見咎めた北見に見下ろされたテルだったが、どもるように俯いて、ドリアをかき回す振りをする。
「珍しく進んでないな。
口に合わないか?」
テルが夕飯を行儀良く片付けるタイプではないことは、もはや諦められている。
しかし、社会人として一般的なマナーを身につけさせる必要を感じた北見によって、時にグラタンやドリアなどの「冷静さを必要とする」意地悪なメニューが用意されることがある。
そのほとんどが口に膨大な水脹れを作るだけに終わったが、懲りないテルに倣ってか、北見もまた思い出したように彼を躾けてこようとするのだ。無駄に感じたことはないが、北見の意図を知っているだけに逆に申し訳ないような気持ちにすらなる。
でも、北見の作る食事が美味くなければ、チーズがぐつぐつ煮えたぎるグラタンにがっついたりしない。そうだ、北見のメシが美味いのがいけない! などと、間違った方向に怒りの矛先が向かってしまうのだが。
「あ、や、そんなことないッス。
スッゲー美味いッス!」
「………?」
誤魔化そうとするテルに対して、北見は不思議そうに首を傾げるだけで、決して苛立つような素振りはない。中途半端なテルの態度を見逃したことのない北見にして、これはまさに青天の霹靂。
「……いや、ただ。
なんか、あったのか、な……と思って」
「『なんか』?」
片眉がひくりと動くのも、北見の感情の流れを読みなれたテルにははっきりとした兆しであった。
だが、予想に反して北見は考えるように沈黙するだけで、感情をテルにぶつけてくることはなかった。
「いや、何も」
「……オレが来る前に、
何かあったみたいなフンイキだったけど」
今朝。
遅刻して駆け込んだ医局がおかしな雰囲気だったことはテルも気づいていた。
何しろなぜか医局に、あの蘭木長船がいたのだ。
しかし、番である四宮蓮の姿がはそこにはなく、北見が大きな箱を事務に引き取らせるといつの間にか姿を消し、そうこうしている間に麻酔科の二人と整形の青木もすぐに散会していった。
展開に置いてきぼりにされたテルは、その後、捕まえた青木に説明を求めたのだが、彼は短く首を振っては何もなかったと機械のように繰り返すばかりだった。麻酔科二人に関しては、どちらもあの毒気のない天真爛漫な笑顔で、次は上手くやろうねだの、いやぁ失敗したったいと、さっぱり訳の分からないことを悔しくもなさそうに言い合っていた。
ますます疑念を抱くテルが、四宮慧が出勤していないことに気づいたのは昼も過ぎてからだった。
北見に尋ねようにもシフトが微妙にすれ違っていたため、会話するどころか彼の姿を見る機会もなかったテルが途方に暮れていたところ、ひょっこり現れた四宮慧は酷くご機嫌斜めだった。
どこにいたのかと問えば、棘のある物言いで「いたよ、ちゃんと病院に」と返されるだけ。
今日は本当に、わけがわからない日だ。と、そう悩むテルに追い討ちをかけるように、午後から現れたのは四宮蓮。
朝見かけないので、てっきり蘭木が一人で何かの使いに来ていたのだと思っていた。
この時も、別行動をしているのかと思っていて、やあと声をかけてくる蓮に「蘭木先生が、朝来てましたよー」と挨拶すれば、彼もまた「俺も一緒にいたんだよ」の言葉。目の前の蓮は、いつもの飄々とした笑顔を浮かべているのに、なぜか遠くに挑む眼差しでテルのずっと後ろの方を見つめているようだった。
「? 医局にはいなかったですよね?」
「ううん、ずっといたんだけどね。
途中からは別のところにいたけど」
「………オレ、遅刻したんスよ」
「ああ、知ってる知ってる。テル先生は本当、朝から元気だね」
「…………?」
蓮の言葉を理解できずに、とうとう沈黙してしまうテル。
「北見先生にこう言っておいてくれるかな。
今度一緒にアマゾンにでも行こう、ってさ」
「…………………はぁ」
「じゃあまたね、テル先生」
「あ、はい……また」
テルがどう返すべきか悩んでいる間に、四宮蓮はあっと言う間に医局を出て行った。
北見への伝言と言われた言葉を思い返して、何とか単語を繋げようと努力するテルだったが、どうしても、北見と四宮蓮、アマゾン、の単語が一つのイメージにまとまる事はなく、彼の頭はますます混乱した。
そして結局、聞いた内容と伝える内容がすれ違う。
「そう言えば、蓮先生がアマゾンで買い物しようねって伝言」
「…………?」
「ん? 何か違ったっけ??」
あれー? と唸り声を上げながらテルは頭を捻る。
しかしすぐに、どうでもいいかと思い直す。どうせ四宮蓮のことを蛇蝎のごとく嫌っている北見なので、その伝言が合っていようと間違ってようと、実現することはないのだから。
「それで、蘭木先生は何しに来てたわけ?
何か、リボンついたでっかい箱が―――」
そこまで言って、気づいた。
「あ! 今日、誕生日?
今日、北見誕生日だ!」
大慌てで喚きだすテルとは対照的に、北見はつまなさそうな表情で一瞥をくれ、ソファに腰を下ろす。
「思い出さなくても良いことを……」
「なーに言ってんだよ! 大事なことだろ!
誕生日は、正月とかお盆とかと同じで、一年に一回しか来ないんだから!」
だから祝う価値があるし、祝わなければならないのだと力説を始める。しかし、そうして熱のこもったテルの講義すら、北見は理解できないとでも言いたげに溜息を吐いて聞き流してしまう。
その無関心さが、逆にテルの焦燥感を煽った。
「ケーキ買ってくる!」
「いらん座れ」
すぐにでも駆け出しそうな勢いで立ち上がるテルは、北見に足を掴まれて押し留められた。
「でも、お祝い!」
「お前が食いたいだけだろうが!」
「オレも食べるけど、北見も食べなきゃだめだろ!」
「誰が食うか。良いから座れ!」
「でもー……」
テルがぐちぐちと口を尖らせた所で、北見の一睨みであっさりと抵抗は封じられてしまう。
この分かりやすい関係を、これまでも続けてきたはずなのに、テルはいつも肝心なところを読み違えて痛い目を見る。
精神的にも、もちろん肉体的にも。
渋々ソファの端に尻を下ろす。すぐにでもケーキを求めて駆け出せるように浅く腰掛けた。
北見はそれを見抜いているようで、足を掴んでいる手はあくまでも放そうとしなかった。
そわそわと落ち着きのないテルでさえ、北見に真正面から見つめられたら息すら止まる勢いで硬直する。誰だって、こんなに美しい男の真剣な眼差しに射抜かれたら、それこそひとたまりもない。多少の耐性のついているテルですら、睨むのとはまた違う、あの真っ直ぐな視線の前では魂を抜かれたように大人しくなる。
「それより、欲しいものがある。祝うつもりはあるか?」
「……あ、ります……」
言い知れぬ魅力は、ただ北見の顔が整っているからだけではない。彼が、熱を込めて見つめている相手が、自分だけだと知っているからだ。
その上で、この瞳を逸らせられる人間がいると言うなら教えて欲しい。なぜ、捕らわれずにいられるのかを。
「食事は我慢できるか?」
「へ……?」
問われた言葉の意味を反芻する間もなく、馴染んだ感触に唇を捕らえられる。
反射的に瞳を閉じてしまうのは、礼儀ではなく、近すぎる北見の瞳から逃れるためなのかも知れない。だって、ひと一人分の空間を開けていても魅了されてしまうのに、キスの距離で見つめられたら、どうなってしまうか分からない。どれだけ数を重ねたところで、今だって、こんなに震えているのに。
瞳を閉じれば、北見から与えられる愛撫にだけ神経を向ける。
柔らかい舌が慣れた動きで唇をこじ開けても、歯列を割ってこちらの舌を絡めとろうとしても、テルは大人しく従った。息が苦しくなると、北見の舌は見越した様に少し退いて自由を与える。テルがほんの少し息継ぎをしたのを見計らって、再び深いところまで追いかけて奪う。必死に応えようとするテルを嘲笑うように、追いかけて追い詰める。
途方もなく甘い愛撫で、北見はテルを簡単に翻弄してしまう。
テルの思考が奪われる寸前、北見はあっさりとキスをやめた。あっと言う間に放り出されたテルがついていけない内に、彼は押し倒される。
「………!」
それの意味するところを一瞬で理解したが、キスの余韻がテルの動きを阻み、北見に易々と押さえ込まれてしまう。
「あの……ちょっと……!」
「祝うつもりはあるんだろう」
「いや、ある! あります!
あるけどちょっとっ……あの、ベッド!」
テルには抵抗をする気ははなからなかった。
ただ、勢いのままに情事に耽けこもうとする北見は、明らかに冷静さを欠いている。
いつもならじっくりと服の上から撫で回し、こちらが我慢できなくなって、羞恥に耐えながら服を脱ぐ姿を愉しそうに見ているのに、今日はシャツの前がほとんど肌蹴られている。わざと煽ってきて、助けを求めようとすると情事の最中であるにも関わらず、冷静な声で淡々と「我慢を覚えろ」などと意地悪をしてくるのは北見だ。理性が服を着て歩いている男が寝室以外でことに及んだことはないし、テルにもそれを強いた。
「ベッド……行かない、んスか?」
熱に震える声を嘲笑うように、北見は彼の鎖骨に口付けを落とす。
「今日ぐらい見逃せ」
「……は?」
耳に囁かれた言葉に、いつもの北見らしからぬ幼い響きを受け取ってテルは目を丸くした。
「今日は、特別な日なんだから」
「北見、子どもみたい」
思わず噴き出したテルを軽く睨み付ける北見は、照れ隠しなのか単に不満なのか、むっと口を引き締めている表情が可笑しくて、テルは声に出して笑ってしまう。そんなことをすればしっぺ返しで泣きを見ると分かっているのに、己の軽率さをいつまでも改められないテルは、今日もまた墓穴を掘り続けるのだった……