■ 黄昏時 ■




夏の暑さも盛りとばかりに、熱中症で運び込まれる急患の数がうなぎのぼりの昨今。
院内勤務とは言え、帰宅すれば誰も彼もが暑さに悩まされるのだ。

医者のお前らに言うのも今更だが、救急車で出勤しないように気をつけろよ、と院長からのありがたいお言葉もこの夏何度目になったことか。医者の不養生にならねえようにな、と締められた後で、安田はテルに意味ありげな笑みを投げかけた。医者だと言うのに、食中毒で急患として運び込まれた黒歴史を蒸し返したいようだったので、テルは意地でも気付かない振りをしてやり過ごした。

一日の仕事が終わる頃には傾いた太陽がようやく山の頂点にかかり、熱気の幾分和らいだ風が吹き抜ける。
それでも冷房の効いた院内から出たばかりのテルには、熱気よりも湿気の方が堪えた。むっと纏わりつくような空気に眉を顰めて時間を確かめる。

よし、まだ間に合う。

ひとつ頷いて、デイバッグをしっかりと背負い直して駆け出そうとしたその時だった。

「おい」
「……!」

背中、いや、頭上からかけられた声に、思わず飛び上がる。
跳ねる心臓を鎮めて振り返ると、信じられないほど間近に外科部長の姿。

「北見……先生」

見上げる視線に困惑の色を察知して、北見は眉間に皺を刻んだ。

「なんだ?」

一連の流れはほぼ定番化していると言うのに、テルはまだ慣れようとしないし、そうやって怯えるように身体を震わせる様は、北見にとっても慣れることができない。

「いえ……」

なんでもない、ス、と小さく首を振って、その怯えをなかったことにしてしまう。

時折、北見を前に萎縮してしまうテルの癖は、間違いなく北見が与えてしまったものだ。それに苛立ちよりも罪悪感を感じるようになったことには、少なくとも二人の関係が好転したことを示している。
しかし残念なことに北見には、まだその先の感情のコントロールの仕方が分からない。

結局、いつも仕事でしている高圧的な態度でテルの呟きを黙殺する。
そして、有無を言わせぬほどの強さで食事に誘う。

いや。誘う、などと生易しい表現ではなく強制的な連行、の宣言だ。

「車を取ってくる、待ってろ」

少ない言葉で意味を悟ることを強要されて以来、テルの北見に関しての読解力は磨かれたろう。
テルは食事に誘われていることと、拒否することなど考えてもいないことを正確に読み取った。

いつもなら。

いつもならば、目先のメリットに釣られて、簡単に誘いに乗っている。
けれど、テルは表情を曇らせた。

北見はいつもテルの返事を待たない。彼が用意した、彼にとって優位な選択肢しか与えられないから、逆に北見がイエスかノー以外の答を求める時は、テルはいつも追い詰められる。

この時もテルの答が「イエス」であると断定して駐車場に向かおうとしていた北見は、物言いたげな視線に気付いて足を止めた。

「なんだ?」
「……あ」

瞬間、しまったと眉を顰めるテルを無言の圧力で促すと、彼は言おうか言うまいかを熟考した後、言いにくそうにぼそぼそと。

「ちょっと……用事、あるんで。
 すんません……」

何を恐れているのか、ばつが悪そうに視線を合わせられずに呻くように断りの文句を呟くテルだったが、北見の返事はと言うと、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「そうか。
 なら、ついでに家まで送って行ってやる」

淡々と、そう申し出る。

愛し合っている恋人同士の「少しでも長く一緒に居たいの」なんて考えでも、そう言った「過程」を楽しむでもない北見の、これははっきりとした嫌がらせなのだが、テルはふわっと表情を緩めてなぜか喜んだ。
わー助かったーなどと、北見には理解不能な言葉を口にしながら、彼の申し出を有り難く受け入れようとする。

これまでの経験から、拒絶か戸惑いを見せられると踏んでいた北見にとって、この展開は予想外だった。
心情の微妙な齟齬をはっきりと感じながらも、自分から言い出したことを撤回することも出来ずに、彼は釈然としない面持ちで大人しく駐車場に向かわざるを得なかった。

車中では、これと話題はないし、運転する北見に会話を盛り上げる気などないから、自然とテルは口を閉ざすことになる。居心地の悪さは最初に比べればマシになった。今では、この沈黙の方が有り難いとさえ思うほどだ。

北見は見慣れた帰路の道すがら、テルの家への曲がり角でウインカーを出そうとして止められた。

「すいません、真っ直ぐ行ってください」

「アパートに帰るんじゃないのか?」

怪訝そうに尋ねてくる北見に言葉を濁して、テルは行く先を告げた。









太陽はもう完全に山の向こうに沈んでしまったのに、まだ空に投げかけられる光は雲をオレンジに照らして輝いていた。
そんな夕暮れの道を指示されて、着いた先は商店街から少し離れた駐車場。と言っても郊外型商業施設の煽りを受けて、半分はシャッター街になってしまっている地元の寂れた商店街だったが、この熱気にも関わらずいつにないひとが集まっている。

その人の波の中で浴衣の男女を見つけて、ようやく北見は祭のことを思い出した。
商店街から少し歩いた神社の参道沿いに、屋台の出店がずらりと並ぶ毎年の行事だと言うのに、北見は一度も足を運んだことはない。正直興味がないし、騒がしいことが好きではない彼にとっては、何を好きこのんで人ごみで芋洗いされねばならんのだ、と言うところか。

一人合点する北見を他所に、テルはシートベルトを外して下りる支度をしている。

「花火大会、間に合ったから助かりました」
「花火大会?」

エンジンをかけたままの北見に、そうっスよ、と何気もなく答えるテル。

「去年、当直入って見れなかったから楽しみにしてたんだ」

確かに思考も性格も自分と真反対のテルならば、祭と聞けば駆けつけずにはいられまい。
祭の雰囲気を楽しみたいのか、騒ぎたいのか、屋台を制覇したいのかは定かではないが(まあ、全部だろう)。

北見は彼の言葉を反芻するように数拍の間を置いた後、首を回してこちらに向き直った。

「もしかして、これが『用事』か?」

「え? うん」

不思議そうな顔をするテルを尻目に、北見は重い溜息を長々と吐いた。

何だかよく解らないテルが、まあ良いかと思いながら、別れの挨拶をさっさと済ませようと口を開いたその時、北見がエンジンを切って車から降りる。

「??」

車中に取り残されたままのテルが、ぽかんと目を瞬きさせていると、北見は助手席のドアを開けて出るように促した。とりあえず、北見が「しろ」と指示したことには従う。そうしないとと言うよりは、そうするようにすっかり躾けられてしまっている。

疑問とデイバッグを胸に抱いてキーロックをかける北見を不思議な面持ちで眺めていると、さもどん臭い生き物でも見るような視線を寄越される。長身も相まって、ぴんと背筋の伸びた美しい姿勢で見下ろされると威圧感も相当なものになる。
条件反射で身体を固くしたテルの萎縮を受け取ってか、北見は彼との距離を詰めることはしなかった。

「どこだ?」

「……へ?」

普段の詰問よりいくばか柔らかい口調で問われるも、北見の意図を計れないテルは間抜けに首を傾げる。
この頃の北見の譲歩を感じるのは、以前ならば、訳もなく苛立ってテルを怯えさせていたこの状況で、鈍痛を堪えるように刻まれた眉間の皺と、小さな嘆息。

そして、分かりやすい回答。

「花火を見るんだろう」

乾くんじゃないかと心配してしまうほど目を見開いたテルの反応が釈然としないことは諦めた。そもそも北見にとって、諦めること、と、許すこと、はイコールで繋がってしまっている。もちろん、目の前の子ども限定の話だが、そうすることで北見とテルの関係は改善されている。
それはもう、否定もできない事実であり、抗うことのできない変化だと北見は認めた。

「あんたも来んの?」

「見ないのか?」

呆然とした問いに対する北見の返答は、微妙に噛みあっていないように思える。
しかし、早口で問い返されたことで、テルは慌てて否定することを優先して首を横に振った。北見は満足そうな顔で短く急かす。

「行くぞ」

テルが首を落ち着けるまで待たず、さっさと歩き始める北見の歩調は、あくまでも病院で見かける少しの早足。

「ちょっ、
 ……待てよ!」

追いかけてくるテルを一度だけ振り返って、北見はほんのわずかに足を緩めた。











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なんと2003年に出てたネタ。

全体的に散漫な感じがするのは、いつごろの時期の関係の二人なのかが、
書いてる自分が最後までわからなかったからかなと……酷い理由だ。