性分がそうさせているのか、どうにもネクタイだけは時間をかけなければ結べない。
それも揶揄され、どうしてお前はそう不器用なんだ、教えろ、とまで言われた事がある。
何とも酷い言われようだが、こちらが教えて欲しいくらいだ。
何度言われても何度教わっても、要領よくネクタイを締められない。
だからテルはこの時も、ちんたらと、下向けている顎の筋肉が攣りそうなほどの時間をかけて、かたちの歪んだネクタイを完成させていた。
ただ、ネクタイを襟に通す瞬間の感触が何となく好きで、それが、尚のこと、上達を阻んでいる要因のひとつであることは本人は気付いていない。
とにかくかたちが出来上がったからよしとして、テルはやっと寝室から出る事が出来た。
袖を捲り上げながらダイニングに入ると、扉の音を聞きつけてか、ソファで新聞を広げていた家主がちらりと一瞥を寄越してきた。
家主は――北見は間を置いてから長い息を吐き出した。
小言の一つでも降ってくるかと身構えていたテルに、しかし北見は何も言わずに顎で台所を示す。その態度もテルの細やかな自尊心を傷つけた。
言っても無駄だと思われている……
それに対する不満はむっと眉を曇らせることでしておいて、とりあえずキッチンに向かう。とうに過ぎた朝食、少し早い昼食を頂くために。
昨夜は北見が食事に連れて行ってくれて、そのまま北見の家に泊まった。
こんなことは最近はしょっちゅうになっていて、翌日休みの北見がそう言い出すことは予想できてしまえるほどになっていた。
生憎、テルは遅番なので、今日はこれから出勤となる。
北見の部屋のものを扱いたがらないと言う以上に、テルに家事をさせたがらない(賢明な判断)北見は、休日であっても必ずテルより先に起き出して、必ず朝食(または昼食)を用意してくれている。
そう言えば、はじめっからそうだったと、テルは思い出す。
遅刻の泡を食って、時には朝食すらも抜きかねない自分では到底できない芸当だと、こればっかりは北見に感謝する。
質素な朝食でも、白いご飯が食べられるなら言うことはない。
キッチンテーブルに腰掛けて食事の前のご挨拶をしていたところで、当の家主は相も変わらず新聞に余念がなく、こちらには一切の興味を示さない。
まあ、あの人はああ言う人ですから……と、誰にともなく胸中で呟いて、テルは朝(昼)食に取り掛かった。
テルの凄まじい要領の悪さを心得ている北見は、たっぷりと時間に余裕を持って叩き起こしてくれる。食事に多少の時間をかけるのは容認されていて、テルは存分に味わう事ができた。それも、起き抜けから三杯もおかわりをして。
食事の後の挨拶を一人済ませて、汚れ物を流しに浸けた。これ以上をやろうとすると北見が乗り出してくるので、テルは早々にキッチンを退散する。
「洗面所借ります」
通りざまの呟きに、北見が今度こそ新聞から顔も上げなかろうが慣れたもので、テルはさっさと洗面所に消える。
要するに、やめろと言われるまでは許容されているのだ。
それに気付いたのは、随分最近になる。
顔を洗って、歯を磨いて、寝癖のついた髪には水をかけて。
最後に、鏡の前でネクタイを直して。
テルは身支度を整えた。
出勤するのには少し早いが、ここから歩いていけばちょうど良い時間になるだろう。居間の隅っこに放り出していた荷物を確かめて、中にしまっていた時計を腕に巻く。
その頃にようやく北見は新聞をテーブルに置いた。まだ、ソファに背を凭れたままだが。
「………っし。
ほんじゃ、オレ、仕事行きます」
「ああ」
車で送って行ってやろうかの一言もない。
ええ、ええ。あなたはそう言う人ですよ。
別に期待するほど鈍っても甘えても、馴れ合ってもいない仲ながら、卑屈に胸中で呟いたテルはいつもの言葉を口に乗せる。
「ども、ご飯ご馳走さまっした。美味しかったです」
「………ああ」
二回目の応答には少しの間があったが、テルは気にせずぺこりと会釈をしてから玄関に向かった。
すると、やや緩慢な動きで北見も後ろを追ってくる。
部屋を出るまでのお見送りは大抵してもらっているが、それにしても毎度ながら妙だなどと思う。いや、いっそ気味悪くさえある。
玄関でスニーカーを履きながら、背後にのっそりと立つ男の気配を感じる。
最初こそはこの存在が威圧的で仕方なかったが、最近に至っては時に電柱程度にしか感じないこともある。
くれぐれも、声に出せばどんな目に遭うか分かったものではないのは明らかだ。
背中側で腕を組んで見下ろしているだろう北見の表情を思い浮かべながら、テルは少しだけ口の端を持ち上げた。
ああ、そう言えば、と思い出す。
それを考えると可笑しくなってきて、テルは靴を履き終えてからも、その衝動が収まらないことを知った。
「………なんだ?」
珍しく北見は問いかけてきた。
普段、どんなにテルが物問いたげにしていても、構わず自分を押し通すのに、と。
だからなのか。
止まらなくなった衝動を、テルは思いのままに解き放った。
玄関に、北見と向き合うように立つ。
身長差に加えた玄関の高さもあってか、相当に見上げねばならなかったが、少し傾げるように頭を擡げて、テルは笑うように言った。
「こないだ、四宮と寝たんです」
それを思い出しちゃって。
肩を竦めて。テルはそう、付け加えた。
分ける必要は、まあ、本当はないくらい短い内容に出来たんですけど。
一本に纏めると今度はどうにも長すぎるので、敢えて場面場面を無駄に区切って、全体的に間延びさせてみました。
ほんの少しですが、お付き合いください。