外科医新婚物語
〜貴方がそばにいてくれて〜
日の明るい内に帰宅できる時期は、何となく得をしたような気になる。
そんなことをテルは思いながら、マンションのエレベーターに乗り込んだ。
今日も目一杯働いたから、就了前からうるさく主張する腹の虫に、もうちょっとの辛抱だと言い聞かせ続けた。どんなに腹を空かせて帰っても、家に帰ると愛妻(笑)が、その強欲な腹を満たすだけの夕餉を用意してくれている。独身時代は帰る道々のコンビニやスーパーに寄っては、くたびれた身体と足を引き摺って、余り物の惣菜を選ぶ寂しさを毎日味わっていたものだが、それがどうだろう。
今では、朝も夕も見事な料理が上げ膳据え膳、糊のきいたカッターシャツにネクタイまで用意され、ベッドのシーツは毎日新しいものに取り替えられ、その上部屋はいつも完璧に片付いている。
ああ、嫁さん貰って本当に良かった………!
(ちょっと有難がる場所を間違っているようだが、)感動に拳を握らせ、目尻が熱くなるのを感じた。
「すみませんっ、乗ります!」
感動に浸っていたからだろうか、外から声をかけられるまで気付かなかったテルは、慌ててエレベーターの開閉ボタンを押して相手を確かめた。
「あっ。
――蘭木先生」
「ああ、テル先生」
蘭木長船は、テルの部屋のお隣さんだ。
テルと同じ頃に越してきた蘭木は、何とと言うか当然と言うか、四宮蓮と一緒に挨拶に来た。
それだけならば、まあ奇遇ねで片付く話だが、どっこい、新居へは同居のためではなく、新婚生活のために越してきたと言われた時は、さしもの北見も驚いていた様子で、だがすぐに嫌そうな表情を浮かべていた。
入籍の時期が似通っていることに驚くよりも、働きに出るのは長船で、蓮が主婦を務めるのだと、半分枯れた笑いを引きつるように浮かべた口で呟いた長船に同情する気持ちの方が強かった。
この二人の役割を知っているわけではない。例えば、あれが食べたいこれが食べたいと当たり前のように強請るのが蓮であり、どんな時も駆けずり回ってでもその願いを叶えるのが長船であるとか。蓮の弟である四宮慧が知っているようなことを知っているわけではなかった。だが、ほぼ間違うことなく、テルと北見の同情は長船の心を慰め(られるものでは到底なかったが)たのは事実だった。
二人の新居が並ぶ階は四階だ。
働く病院が違うのだが、たまにこうして終了時間がかち合う時がある。
テルにとって長船は、良いお隣さん、だ。
蓮と違って、突拍子もないことを言わないし、困らせない。誰に対しても当たり障りのない対応のできる長船が安心できるお隣さんであるのに対して、蓮は酷く繊細で難しい面を持っている。
テルにしてみれば、蓮もそこそこ楽しいお付き合いのできる隣人なのだが、北見には決してそうではないらしい。分かり易いほど接触を拒んでいる。 (気持ちは分からないでもない)
エレベーターに駆け込む長船の手の買い物袋が、がさと音を立てた。
「お買い物ですか?」
「……ああ、ええ。
もう冷蔵庫の中身がなくなってる頃だろうから」
『なくなってる、頃、?』
どことなく違和感を感じたテルだったが、それよりも驚くべき事実を確認する。
「蓮先生、料理できるようになったんですか?」
純粋な質問のつもりのテルの言葉に、長船は弾かれるように身体を震わせた。
その反応に何か底知れぬものを感じたテルの懸念を肯定するように、長船の顔色が見る間に蒼褪めたと思ったら、手の中のビニール袋が大げさなほどの音を立てて震え始める。
平素、取り乱した所を見たことがない長船のそんな姿に、テルは思わず唾を呑み込んだ。
決して触れない方が良い………、動物が危機を察する勘に似たものが働いた。
「あっ、そう言えば今日、病院でこんなことがあったんスよ――」
「へえ、そんなことが――」
エレベーター内の空気を切り替えようとする陽気な声を上げるテルの期待に、長船は(不自然極まりない振り方であるに関わらず)案外すんなりと乗ってくれた。エレベーターが二人のそれぞれの愛の巣(……)に到着する頃、長船に笑顔が戻ったことにテルはほっと胸を撫で下ろす。
エレベーターから降りて、あと僅かの家路を談笑しながら長船と連れ立って歩いていたテルは、ふわりと漂ってきた夕餉の香りに鼻腔を擽られた。
「あー、この匂い、麻婆豆腐かな〜。
北見の麻婆豆腐、お店のより美味しいんだよな〜〜」
香りで味を思い描き、独り言のように呟きながらヨダレを垂らすテルを、長船は微笑ましく見ていたが、
「テル先生のところは良いね。
お嫁さんが料理上手で羨ましいや」
「え?」
その、何の感情も含まない声音に、テルは妄想の食卓から引き戻された。
先ほど感じた違和感が、かたちをとり始めていた。
「蓮先生、お料理できるようにな………」
テルの言葉は最後まで続かなかった。
――いや、続けられなかった。
「…………あ、あのぅ…………」
テルは掠れた声で呻いた。知らず内に、額には脂汗が浮かんでいる。
隣にいるはずの長船の気配が、随分遠くに感じられた。
彼を窺うことは出来なかった。なぜなら、目を逸らすことが出来ないからだ。
目の前、テルの部屋の向こう。
長船の部屋の扉の隙間から音もなく漏れ出る、どす暗い緑色の噴霧に釘付けにされて。
「あそこ…………蘭木先生の、
…………部屋…………ッスよ、………ね?」
声が震えることは自分で理解できた。
この震えが、どこから来る、何に対してのものかさえ知ろうとしなければ。
長船はしばらく黙していた。その眼鏡の奥に潜んだ両目が覗けなかったのは、或いは静かに失神していただけなのかも知れないが、テルが状況を理解するまでの間、少なくとも沈黙と平静を保っていた。
焦れたテルが再び口を開きかけた時、やっと彼は行動した。
「テル先生……」
「……はい?」
「テル先生は幸せだね。
奥さんが料理上手で……」
声は穏やかだった。向けられた笑顔も、彼独特の優しげな静かなものだった。
だが、何故だろう。テルには血の涙を流しているように見えた……
「蘭木先生……あの……」
「テル先生。君は帰りなさい。
奥さんの迎えてくれる、温かな家庭へ――」
何かを言いたげなテルの言葉を遮る長船の言葉は威圧感こそないが、テルを黙らせるのに充分なほど静かに重いものだった。そっと、肩に重なる手の温かさに、テルは嗚咽を禁じえなかった。
「そして、これだけは覚えておいてください。
愛は、時に、憎悪よりも残酷に、愛するひとを傷つけることを………」
涙が止まらなかった……
それは決して、漏れ出る煙から漂う刺激臭への反応だけではない。
「蘭木先生………!」
テルの悲鳴のような呼びかけを振り切った長船は、どう頑張っても自然界で創造しえない緑の噴霧を掻き分けて玄関の扉の中へ消えていった……
その漂う障気の切れ端にすら近寄ることも出来なかったテルの頬を、また一筋の涙が伝い落ちた。
「ただいま………」
玄関扉を開けた、力なく項垂れたテルを見て、北見は眉を潜める。
いつも、部屋の前で嗅ぎ分ける夕飯の匂いにテンションを上げてご機嫌なのが普通で、仕事先の病院の高額医療機器を軒並み破壊して回って帰ってきても、こんなに落ち込んで帰ってきたことはない。
「どうした? やけに大人しいな」
今まで壊した中で最も高額だったものの値段を思い出し、それを上回る値段の機械を上げ連ねてみても、今の夫の沈みようには見合わない。
具合でも悪いのかと、項垂れた表情を覗き込む。
「北見……」
「目が、赤いな」
「オレ……オレさ………」
「熱はないな」
乾いたはずの涙が溢れてくるのを感じても、北見は子供をあやすような仕草で頬を、額を、髪を撫でてくれる。その手の温もりが、肩に置かれた長船のそれを思い出させ、さらに目元にじわりとした熱を沸かせる。
「今日はお前の好きな麻婆豆腐だ」
「……うん。うん、うん……北見。
北見、北見……北見」
「豆腐、六丁も使った」
「……うん」
「ほら、手を洗って来い。飯を山ほど盛ってやるから」
「うん、北見」
北見が指先で涙を拭ってくれるだけで、抱えていた重荷が晴れていくような気がした。
「うがいもしろよ。最近、黄砂が舞ってるからな」
そう言って食卓の準備に向かおうとした北見に、返事の代わりに背後から抱きつく。
「オレ、北見をお嫁さんに貰ってよかった……
北見がそばにいてくれるなら、何にも要らないって、
初めて分かったんだ………」
「…………そうか」
耳障りの良い言葉が北見を甘く擽る。
そろりと離れたテルを振り返ると、誘うように伸ばした両腕を北見の首に回し、引き寄せるようにして唇に軽く口付けて離れる。離れ際に頬にもお返ししてやると、テルは見る間に腫れた目元を緩ませて笑った。
アイシテルぜ奥さん、と、照れ臭そうに呟いて洗面所に消えていくテルの耳が真っ赤に染まっているのを目ざとく見つけた北見は、夫が笑顔で食卓に帰ってくる間中、転がりこんだ幸せを感じていたのだった。
その後、一月ほど姿を見せなかった蘭木夫妻(特に夫の方)の変り果てた姿に、感動の涙を流して生還を喜んだと言う………