外科医新婚物語
〜割れ鍋に綴じ蓋〜





結婚に対して甘い理想や夢を抱いているテルに、北見が振り回されることはしばしばあった。
正直を言えば、北見自身にもそう言うものを抱いている時期もあった。あったが、それは自分と言う夫と可愛い―― 別に可愛いさに拘っているわけではないが――妻が居て、始めて土台の築かれる憧れの城であって、子どものような夫と自分と言う妻では少々話が違ってくる。
結局、甘い結婚生活への理想なんて幻想なんだと、北見は早々に諦めることが出来たわけだが、どうにも夫は違うらしかった。


まー、そんなわけで。


「――だからさ」
「そもそも『だからさ』の意味が分からんのだが。
 なにか、俺が納得できるような説明が為されたっけか?」

新婚目出度く三週間目。
三週間以前まで足繁く通っていた北見のマンションから引っ越してきた新居は広い。
北見のマンションでさえ、二人でちょうど良いくらいの広さだったのに、このマンションはさらに広い。
最初の一週間、広さに戸惑ったテルは、きっちり前のマンションサイズでしか行動できないでいた。それを北見にからかわれたものだが、現在は行動範囲が拡がり、あと二部屋で制覇できるまでに至った。
けれど結局、仕事から帰ってから居つくのは広いリビングダイニング。激務の疲れを、愛妻の側でべったり過ごして癒すのが毎日の日課になっている。

「うん、だからさ。説明は今からするから」
「日本語の使い方から学び直して来い」
読んでいた分厚い医学書を膝に畳んで、テーブルのコーヒーカップに手を伸ばしながら北見は毒づく。
「オレ達、結婚したろ?
 北見がオレの嫁さんになってくれて、一つ屋根の下で一緒に生活してる」
と、同意を求めるように目配せしてくるテルには構わず、コーヒーを口に含む。テルは一瞬だけ逡巡したが、それは北見なりの肯定なんだと納得して言葉を続けた。

「だから、北見のことを北見って呼ぶのはおかしいと思うんだ!」

テルは威勢良く宣言して、北見を見やる。
しかし、頷いてくれるものと思っていた北見は、妙な表情でこちらをじっと見つめていた。
おかしいな、とテルは頭を捻る。間違ったことは言ってないはずだと。
まあでも、言うことは全部言ってしまわなければと、続ける。

「でさ、これから、北見のこと、そのー……名前で呼ぶから。
 な! し…………しゅ、しゅうい、……ち!」

口にしてみると、何と気恥ずかしいことか。
テルは愛妻の名前を言いきったところで、わーなんて一人で叫び出すと、真っ赤になって床をごろごろと転がった。
「うわー、なんかもー恥ずかしいな! これからオレ、北見のこと紹介する時、
 『これがオレの嫁さんの柊一です』って言わなきゃいけないんだぜ!
 その時にこんな照れてたら、格好悪いよな!」
もう何かすでに格好悪いのだが、テルはとにかく脳内で繰り広げられる妄想で忙しい。
同僚を家に呼んだシチュエーションのイメージ映像の中の自分は、『おい。柊一』なんて、男らしく妻を呼びつけているではないか。やはり一家の長たる威厳は、毅然とした態度から始まるのだ。
テルがそう至り、新たに決意を固めたところで、北見は静かにカップをテーブルに置いた。

「そうか………ならばオレも、主人のことを呼び捨てにするのはおかしいな。
 これからは、『あなた』と呼ぶことにしよう」

「………えっ !!!!??」

瞬間、テルは凍りついた。

「あ、………あな、た…………?」
錆びた鉄が回るような鈍さで首を回し、口元を引きつらせたまま呻く。
「そうだろう? あなた」
「ちょっ……! いやなんか違う!」
真顔の北見とは対照的に、テルは瞬時に蒼褪めた顔で両耳を覆って首を振る。

確かに、北見の言うことも間違ってはいない。
妻を名前で呼び、夫を『あなた』と呼ぶ。
理屈も筋もきちんと通っている……いるのだが。

「あなた、どうしたんだ? 顔色が優れないぞ、あなた」
「やっぱ、何か違うー! 何かが間違ってるー!」

結婚生活に憧れをもつばかりのテルにとって、『あなた』と呼ばれる理想はあった。
甘やかな理想の中で、その愛妻は彼よりも小さく柔らかく温かく、フリルのエプロンなんかが似合う、笑顔が可愛い気立ての優しい、少女のような清純さと聖母の安らぎを兼ねた声と保護欲をくすぐるイントネーションでもって甘ったるく、『あ・な・た』、と…………

「おい、あなた。気分が悪いなら、ベッドに運んでろうか?」
「ちがうー! 声が野太いーっ !!!!」

悲鳴を上げて床に突っ伏したテルの脳裏で、がらがらと音を立てて理想が崩壊していく。
脆く崩落した、美しい憧れだった瓦礫を押しやるように、だくだくと涙が溢れ出る。

人間は、美しいものを見つけたとき子どもになり、持っていた美しいものを失うことで大人になる。それは、夢の世界から帰還し、現実を見るちからを持つと言うことだ。美しい夢の世界の居心地がいかに良かろうとも、現実世界からの逃避はいつまでも続ける事はできない。
現実と向き合う強さを持った時、ひとは大人になるのだ。
そして、その失ったものを懐かしむことで、老人になる。大人になるために犠牲にしてきたもの、捨てたもの、失ったもの、それは永遠に取り戻すことの出来ない、かけがえのないものには違いない。だがいずれ、その宝物を想い、穏やかな気持ちで微笑むようになった時、ひとは幸せを手に入れるのだろう。

ならば今は、苦難の時なのだ。

幻想の終りには涙が付き纏うことを、テルは思い知った……








心に負った傷は簡単に癒えないが、それでも日が昇る限り、人間は勤勉に働かなくてはならない。
朝食を片付ける北見の背中を横目で軽く撫でて、洗面所に向かう間、テルの心は沈んだままだった。

結局、美しい幻想を散々ぶっ壊してくれた愛妻を名前で呼ぶのは諦めた。
泣き疲れたテルは、幻想の屍の上に仁王立ちでふんぞり返る妻の姿をそこに見た。そうなると、これまで抱き続けた理想そのものが途端に意味のないバカなものに思えて、こんなヤツ、『北見』で充分だと、半ば八つ当たり気味に胸に刻みつけることで、忌まわしい記憶を排除することに決めたのだった。

つまりは、美しいものを捨てて大人になったと言うところか。


「それじゃ。北見、行って来ます」
「ああ、物を壊さないようにな」

北見の出勤時のお見送りは結婚前から続くもので、いつもは優しくもないこの男は、これで甘やかせているつもりなのかも知れない。妙な方法ではあるが、北見はこれを欠かしたことはなかった。
だからテルも、靴を履いて玄関扉を開ける前に、北見の袖を引っ張って、行って来ますのちゅーを仕掛けるのを欠かさないことにした。たとえ大喧嘩をした翌日でも、北見がそうして見送ってくれる限り、テルもまたそれに応えることで夫婦円満が保たれている。
短く、触れる程度のキスをすると、沈んでいた気持ちも何となく浮上してくる。我ながら単純だと、胸中で呟いたテルは、満面に浮かべた笑顔で行って来ますと北見に告げて扉を開けた。

ちょうど、お隣も出勤だったのか、自分と同じように玄関扉を開けて、室内に顔を向けている蘭木の姿が目に入った。その向こう――ちょうど今、北見がいるのと同じところだろう――から、朝の新婚さんらしい甘い声音で、蘭木の愛妻が送り出すのが聞こえた。

「行ってらっしゃい、ダーリン。頑張ってきてね」
どピンクのハートマークがつきそうな甘えた声に対して、朝っぱらから憔悴し切った顔色の蘭木(結構こう言う顔を見かけることが多いのはなぜだろう)は、俯き加減に細長い溜息を漏らした。
生気のないその表情と長身が手伝って、立ち枯れかけている木のような印象を受ける。

「……行ってきます…………れ、……
 ………………ハ、ニー………」

言葉の最後は消え入るように締められたのだが、テルは最早お隣夫妻がどうなったのかは見ていなかった。開いたままの玄関で、まだ夫の見送りのために残っている北見を振り返る。
北見は、ぱぁああっと春の風が吹いたような底抜けに明るい夫の顔を見た瞬間、対称的に眉を顰めた。
そして、テルが口を開く前に素早く、

「それだけはご免だ」

と、厳しく突き放した。