外科医新婚物語
〜愛の道〜





結婚指輪のことでは大層揉めたことを覚えている。
――いや、正確には婚約指輪か。


夜中の夫婦のベッドで疲れて寝転がる裸の夫を胸元に抱いて、北見はぼんやりと素肌で感じる吐息に少しずつ眠りを誘われながら、左手に絡む夫の薬指で鈍く光る銀色のリングを見つめる。






「婚約指輪はどんなのが良いッスか?」
最初そう尋ねられた時、頭がおかしいんじゃないのかと思った。

「必要ない」
「何でですか!」
手を振って面倒臭そうに応える北見に、テルは必死の形相で詰め寄ってきた。
「お前の脆弱な経済状況と貧弱な給料から捻り出されるのは後味が悪い。
 そんな金があるなら、叔母さんに学費を返済しとけ。
 そもそも、オレが指輪を欲しいと思うのかお前は?」
「いやでもっ、正式に婚約したんだし、やっぱり指輪が――!」
食い下がるテルに、北見は心底嫌そうな渋面で呻く。
「お前、俺の指に、ダイヤだの何だのゴテゴテくっつけた指輪を嵌めるつもりか」
「でも、婚約指輪は張り切って欲しいってみんなが!」
「その、みんなって言うのは、全日本人口か? それとも、全世界人口か?」
「…………外科ナース」

そうだろうな、と。そこまで聞いて、そう言えば休憩時間に看護士達に囲まれてワイワイ盛り上がっていたなと思い当たる。
どうやらこのロマンチストらしい男は、女性特有の理想像をあれやこれやと吹き込まれたらしい。北見は長い溜息を漏らす。

「あのな、お前は誰と結婚するんだ?」

子どもに言い聞かせるような静かな口調で、北見は語りかける。
テルは口を尖らせたまま、上目遣いに、
「北見」
と、拗ねたような声で答えた。
「だったら、オレが要らないと言うものは必要か?」
「………じゃ、ないッス」
「好し」
北見はそれで会話を打ち切った……つもりだったが、テルはそうではなかった。
「じゃあっ、じゃあじゃあ北見!
 結婚指輪! 結婚指輪だけでも!」

じゃあ、の意味が分からないと、北見は内心でぼやきつつ、やはり何かを期待しているらしい子どもの明るい表情に辟易した。
「お前な、外科医だろうが!」
「仕事中は外すもん! 結婚指輪、買って良いだろっ !!?」
「どうせ失くすものを、高価い金出して買うその神経が理解できない」
「失くさない! 絶対失くさないから!
 ねえー、買って良いだろ? 結婚指輪ー!」
これでは、玩具売り場で玩具を買ってと子どもにごねられる母親だ。
終いにはジタバタと暴れだしそうな気配を感じて、北見は仕方なくそれだけを許可した。

が、夢見がちな年頃(?)の子どもは、婚約指輪を贈る甲斐性に憧れて、それから結婚までの二ヶ月ほどの間、折りに触れては『婚約指輪も買って良い?』と、散々駄々を捏ね続けたのだった。





物思いに耽っていた北見の指に、そろりと指が絡まってくる。
「きたみ……」

視線を胸元に下ろすと、夫の眼差しは微睡んでいて、覚醒とはとても言えない。
夢が途切れたか、目覚めと眠りの境目の辺りを漂っているのだろう。

テルは意識的にか無意識的にか、眠る時に左手を絡めてくる癖がある。今も半分閉じかけた瞳のままで、北見の左手に絡めた指をしっかりと繋げる。瞬間、ほんの小さく、カチンと澄んだ音を立ててお揃いの指輪が音を立てた。無機質な銀のそれは、しかし人肌に温まって馴染む。

このそそっかしいドジな夫は、奇跡的に結婚指輪を保持し続けていた。
仕事から帰って、手洗いの後に左指に収めた指輪は、朝の出勤時には胸ポケットに大事そうに仕舞われる。家に置いて行けば、その間の安全は確実だと言うのに、テルはそれを拒んだ。
そんな頻繁な着脱を不定期に繰り返して、しかもどこに行くにも持ち歩くのでは、北見でさえ失くしてしまいそうなものだが、そんな生活が始まってからしばらく経つ現在も、指輪はテルの元で大人しくしている。
最初から、指輪に関して強情を張り続けた執着の結果だろうか。

テルは北見の指の感触を楽しむように、絡めた手をやわやわと揉み撫でている。北見の胸に沈んだ両目は閉じていて、再び寝入るのに大した時間はかからないように思えた。

「きた、みー……」
寝言かうわ言か、そんなとろんとした声で呼ばれて、北見は空いた右手で髪を撫でてやると、その柔らかな感触に、テルの口元がくすぐったそうに綻んだ。その口元に、繋いだ左手の甲を寄せて口付ける。
そして、口付けた手の甲に囁きかけるように、甘い吐息を漏らした。

「オレ……すげー嬉しい。
 北見がさ、指輪……してくれて……」

髪を撫でていた指は、いつの間にか額に降りて肌に触れている。

「結婚指輪してる間……、オレは北見のもの、で、
 ……北見は、オレのもの。
 だからー……すっげー嬉しいの」

北見の耳を心地良く撫でるテルの言葉は少しずつ途切れる時間が長くなっていたが、いつまででも聞いていたいその声に、北見はただ耳を傾けていた。

「………きたみ、さ。知ってる……?
 左手の薬指……はぁ、心臓に繋がってる……『愛の血管』……なんだ、ってー」

だから、結婚指輪は左手の薬指にするんだって、と、テルは囁き終えて満足したのか、そのまま静かになる。眠りに落ちたテルの額を最後に一度撫でて、その手で夫の身体をより密着させるように抱き込むと、寝入り端の身体は寝心地の良い場所を探すように北見の胸に頭を摺り寄せた。


心臓に繋がっている、愛の血管。
指輪はもう音を立てない。繋がれた瞬間からゆっくりと、二つが一つに溶けたように。
ならば、今こうして左手を繋いでいる自分達は、それぞれの心臓を握っていると言うことだろうか?


北見自身、らしくもないことを思いながら、胸元の温もりに急速に眠気を誘われ始める。

結婚指輪のことでは大層揉めたことを覚えている。北見にとっては、問題は婚約指輪の必要性だけの話だったが、必死に説得しようとするテルの表情を思い出して、やっと思い当たった。
今なら、あの時のテルの訴えを真剣に聞いてやれるような気がしたが、やっぱり婚約指輪は必要ないなーと、幸せな眠りにつく直前に出た結論は、結局そんなところだった。








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 結婚指輪を左手の薬指にするのは、左手の薬指の血管が心臓にまっすぐ繋がってると考えられてたそうで、
 愛の血管、恋の血管なんて、可愛いんだか生臭いんだかな名前で呼ばれてるこの指に
 「終わりのない」リングをつけることで、永遠の愛を誓わせたんですって。意外に怖い(笑)。
 万国共通ではないから、おまじない程度。