外科医新婚物語
〜蓮を採る〜
夕飯の準備にはまだ少し早い時刻。あと一時間も待てば特売が始まるのだが、北見はあえてその時間をずらして買い物に来る。昼日中から、買い物に精を出している北見が悪目立ちをしてしまうのが理由だが、特売に群がる殺気だったおばちゃん達の争奪戦に巻き込まれるのはぞっとしない。
「あ、北見先生」
聞き覚えのある親しげな声に振り返った北見の前に、柔らかく微笑む蘭木長船の姿があった。
「こんにちわ、お買い物ですか?」
「……ああ」
仕事の帰りだろうか、彼の人柄によく似た落ち着いた色のスーツを着こなしている長身な男は、持っていた牛肉の切り落とし(300g)を、右手に下げている買い物籠に入れた。
似合わないことは今さら言うまでもない。 (正直、人のことは言えないのだが)
「仕事帰りか?」
「ええ、まあ」
「……大変だな」
言外に含まれた意味を、長船は理解していながらそれを悟らせない。
北見にとっての蘭木長船とは、枠に当て嵌めるに持て余す男だった。
彼に関する情報を端的に述べるならば、隣に住む新婚夫妻の夫のほう。それだけで事足りる。
少しかいつまんだところで、北見には、蘭木の正確な位置関係は掴めていない。
そう言う意味では、もしかしたら北見の『夫』であるテルの方が詳しいのかも知れない。
だがどちらにしろ、北見はわざわざそれを確認するために踏み込む理由も必要もないと認識している。
とまれ。或いは、もっと端的に表現するならば、『被害者』と。
言えなくもないなと、胸中で付け足した。
関係は、良好であると言える(これは、蘭木に対してのみの感想だが)。
この男は、立場や状況と言うものをきちんと把握することが出来る。
いや。それ、が彼の役割なのだろう。蘭木はとにかく、『出すぎない』男だった。
この、目の前で複雑な笑い顔を浮かべて見せる男が、これまでどれほどの辛酸を舐めてきたか、北見には図り知る事は出来ない。だが、確実に北見の想像を上回るだろう苦難に耐えてきただろう長船に、親近感以上の尊敬を抱いていることは否定できない。
「北見先生、今日は何にされるんですか?
冷やし中華ですか?」
のんびりと、しかし、こちらの買い物籠の中身をチェックする目敏さを北見は見逃さなかった。
「こうも暑いと、こっちもメシを作る気が起きんしな。
そっちは……」
同じように長船の籠の中を覗いた北見は、献立を想像することが出来なかった。
怪訝そうな顔の北見に対して、長船は乾いた笑顔を顔面に張り付かせる。
「献立は、帰ってから『決まる』んですよ。
だからとりあえず、必要そうなものを買って帰るんですよ」
「……………そうか」
「まあでも、伊達に長くやってないですからね。
ある程度は予想できるようになったんですよ。
出掛けに機嫌が良かったので、今日は何を作っても文句言われないでしょう。
――勝率は七割と言うところですが」
そうやって控えめな口調で細やかな喜びに興じる長船に、北見は言っちゃ何だが虚しいものを感じる。そのようにして彼にとっての『家庭』は、潤いも安らぎも何も、温かさすらない空虚な世界なのだと思い知って。
「常々思っていたんだが」
「はぁ……?」
北見が徒歩で買い物に来ているのはマンションからスーパーが近いからだが、長船まで歩きなのは、妻が車を手元に置いておきたがったからだそうだ。
稼ぎが乏しいわけでもないのに、なぜ車が一台しかないのかと聞いた時、長船すら困惑した様子で、『持ち物を共有するのは夫婦の常識だろ! バカ!』と喚いたらしい妻の言葉を繰り返すしかなかった。
北見は常に長船に対する同情の念を禁じえない。自分だったら確実に殴っている。
まあそんな訳で、 並んでビニールの買い物袋を提げ(北見はマイバックを持参し忘れた)て歩く、男二人。
言わずもがな微妙な空気が漂っている。
自分以上の相当量の買い物袋を持ち難そうに捻っている長船に配慮してか、北見のペースは緩やかだった。或いは、長話を期待しているのかも知れないが。
「こう言っては何だが、お宅のその、細君……
独身時代から、色々と面倒を見てきてたらしいな」
『細君』の辺りで言い難そうにまごついたことに、長船は小さく笑う。
「ええまあ。幼稚園時代からの付き合いですよ」
「失礼だが、オレにはちょっと理解できない。
あの男の常識外れな公害並みの迷惑神経を熟知してるだろうお宅が、
人生の生涯を途方も知れない気苦労ですり減らすほどの結婚生活を選ぶミスを犯すことが」
凄い言われようだなぁと、長船は他人事のように溜息を漏らす。
正直、妻の乱行の多くは長船の頭痛を促進させ、新婚生活に至っては、隣家の主婦仲間の北見さえ悩ませているらしい。それによって、北見の指摘する長船の気苦労が軽減するどころか、増大するのがまた疑問であったが。
長船は黙っていた。沈黙を願ったわけではない。
ただ、これまた北見に指摘された『ミス』を、何となく思い出していた。
北見は特に弁舌な男ではない。沈黙に居心地悪さや気まずさを感じるほど情感は豊かではなく、長船の沈黙に任せてただ足を進めていることに苦痛は感じない。
「……あれは、いつだったか。
確か少し寒くなる季節のことですね」
歩みの速度に併せるほどの口調の長船に視線を流すと、彼はどことも言えぬ中空を眺めていた。
「その日、私は勤務が終わって、いつものように蓮さんの食事の支度をしていました」
いつものように、のところで北見は可哀相にと胸中でぼやいた。
「食事中、蓮さんにワインを勧められたんです」
長船は翌日非番だったので問題ないのだが、蓮自身はその日は待機医だった。
そのため、長船は蓮を差し置いては飲めないと拒んだものの、蓮の独特な話術に乗せられて結構な量をハイペースで空けてしまい、結果、普段飲みすぎる蓮の介抱のために深酒をしない長船が、平素ない寛大な蓮の態度に気を良くして、ほどほどに酔った。
しかし、良く考えてみれば、ワインを勧められた時点で気付くべきだったのだ。
日付の変わる頃に、蓮の携帯電話が鳴った。
呼び出しに応じて、蓮はむしろ機嫌良さそうに支度をしていたことを不自然に思うべきだったのだろう。
そうして支度を済ませた蓮は、にこにこと笑顔で長船に告げた。
「長船、送ってくれるよな?」
「……………は?」
「呼び出しがあったんだから、今すぐ病院に行かなきゃならんだろう?
ほら、すぐ車出す!」
慌てて、長船の腕を掴んで立たせる蓮を押し留める。
「ちょっ……ちょっと待ってください、蓮さん!
私、さっきまでワインを……!」
「だから?」
『だから』、って………!
長船は、蓮の容赦のない言葉に困惑しながら、掴まれている左手をそろそろと解かせる。
「あの……申し訳ありませんが、蓮さんがご自分で運て――」
「オレがっ !!?
お前、オレに運転させようって言うのか!」
長船の言葉が終わる前に、蓮のとんでもない声量の悲鳴が響いた。
「お前が運転すれば良いだけの話じゃないか!」
「……私はあの、飲酒運転になってしまうので……」
「飲酒運転? たかがそんなことで、オレの送迎が出来ないって言うのか!」
もう、無茶苦茶だと、長船は思った。
普段から、長船に理解しかねる発言をぽろぽろ漏らす蓮だ。勿論、こんなレベルのものもたまにある。
だがどんなことがあっても、仕事の障害になるような我侭は弁えていたはずなのに……
長船は、酔いも手伝って眠ってしまいそうになる思考を叩き起こす。回転率の落ちているそれを奮い立たせ、しどろもどろに言葉を継ぐ。
「あ、……あのじゃあ、タクシーを呼びま――」
「タクシーだとっ !!!
お前、オレをあんな悪酔いする悪臭の車に押し込むつもりか!」
「……いえでも、どちらかにして頂かないと………」
「どっちも却下に決まってるだろう!
オレはお前の運転する車にしか乗らないんだ」
「いえ、蓮さん、それだけは……」
何とか穏便にと、下手に出る長船に対して、蓮は腕組をした強硬な態度でふんぞり返った。
「乗・ら・な・い・ん・だ・!」
「………………」
あまりのことに長船は絶句するしかなかったが、とにかく説得はしなければならない。
「蓮さん……お願いですから、今日だけは」
「今日だけは?」
「ご自分で運転するか、タクシーを呼ぶかして……」
「い、や、だね!」
「蓮さん〜………」
泣きたい気持ちで、そっぽを向いた蓮に取りすがるが、蓮は長船の懇願にも頑固に無視を決め込む。
この上は土下座でもして頼むしかないかと、それでも揺り動かせそうにはなさそうだが、とにかく長船は出来る手は全て打たなくてはならない。覚悟を決めて、フローリングに膝を付いた時、
「――まあでも、そうだな……」
何かを思いついたと言う口ぶりで、蓮がこちらを見下ろす。
その目は、すぐ起こるトラブルを待ち侘びる子供のそれで、長船は瞬間、何かの危険を察知した。
だが、長船の警戒を他所に、蓮はジーンズのポケットから折り畳まれた紙を広げて見せた。
「これに署名と押印してくれたら、車で行ってやる」
邪心のない笑顔で差し出されるそれを、恐る恐る受け取る。
そして、
「…………………………あの、これ………
『婚姻届』って………書いてありますけど………」
「バカだな長船。結婚する前から離婚届は出せないだろ」
まあ、離婚するなんて許さないけどな、とか何とか。隠そうとしても漏れ出る、感情の余波と言うのか。
蓮の口調はその言葉とは対照的に上機嫌なものだった。
「………いやあの、理屈が分かんないんですが」
「長船!
お前がオレに無理難題を押し付けようとするから、オレはその譲歩策としてこれを提示したんだぞ!
お前の怠慢を、オレは最高の寛容で許そうと言ってるのが分からないのかっ !!!?」
「突然、話が歪曲されてませんか!」
「お前がどんなにオレを全否定しようとしても、オレのお前への気持ちは、
この譲歩によって揺ぎ無いものへと昇華されたんだ!
それなのにお前はまだ、オレの全幅の信頼を裏切るつもりか!」
「昇華と信頼のかたちをもっと違う、分かりやすいものにしてくれませんか」
「これのどこが難解だ !!?
この上なく分かりやすい結果で結末だ!」
……まあ、ある意味最高に分かりやすい。
方向が間違っていることを除けば、望まれた結果だったのかも知れない。
先ほど以上に強固な態度の蓮を見る限り、長船の奸智ではどうにもなりそうにない。
時間だけが刻々と過ぎて行く中、蓮がちらりとこちらを横目で眺めて、どうするんだ? と無言で促す。長船には、その問いに対する答を出す事はできなかった。
――だが。
ちょうどその時、階下の道路を救急車が走り抜ける音が聞こえて、長船の頬を汗が伝う。その緊急車両がどこに向かうものかは知らなくとも、何をするかは熟知している。たとえ、この救急車が彼らの勤め先に向かわなくても、呼び出しを受けたのは事実であって、今こうやって睨み合いを続けることの無意味さは分かりすぎるほどに分かる。(蓮には見受けられない)良心が、長船をちくちくと苛む。
長船には、問いに対する答を出す事はできなかった。
だが、自分がいま、何をすべきであるかは知っていた。
静かに黙ったまま、彼は立ち上がる。
そして薄っぺらい紙をテーブルに広げて、用意したボールペンで淡々と文字を綴っていく。
「後で、印鑑、押しておきます……」
痛々しいほど感情の失せた長船の言葉に、蓮は満足そうに頷いたのだった………
「犯罪だろそれ」
「…………………」
北見の眉間の皺が深くなった瞬間、それは半眼になった。長船には返す言葉が見つからず、ただ黙々と意味もなく、交差点の先の赤信号が網膜に焼き付くほど眺めているだけだった。
「弁護士に相談してみたらどうだ?
て言うか、もう離婚相談したらどうだ。アホほど慰謝料取れるぞ」
「………」
一瞬、ちらっと考えてしまった長船の前で、北見は信号の変わった横断歩道を渡り始める。
離婚、と言うことに意味はないような気がするので、これまで特に意識したことはなかったし、今でもそれは変わらないので、長船の中で何かが響くと言うこともない。ただ、呼び出された言葉の中でふと閃くものを感じて、北見より半歩遅れる長船の足取りは僅かに鈍る。
「……正直ね。
分からないんですよね」
「?」
その呟きに、先を歩きながら、もういっそ高額の保険金でも賭けてごにょごにょと言っていた北見が振り返る。手の中の買い物袋を持ち代えた長船は横断歩道を渡りきる。
「訳の分からない屁理屈捏ねて、何で婚姻届だったんでしょうね?」
「…………は?」
長船はぼけっとこちらを見つめている北見に、首を傾げて続ける。
「昔っから、意味の分からないことを言ったりして、私を困らせるのが好きなひとでしたけど、
あんな策まで労して婚姻届を書かせて、悪戯にしては度が過ぎてる気がしませんか?」
北見は何となく、本気で分からないと頭を捻る長船よりも、横断歩道の歩行者信号の青信号がちかちかと点滅するのを眺めていた。
「蓮さんのことは良く知ってるつもりなんですけどねー。
たまに何のことで怒ってるのか分からない時があるんですよね」
そんなことをぶつぶつ言いながら、呆気に取られている北見を置いて道を急ぐ。
次の曲がり角を曲がって坂を上れば、マンションに着く。北見との会話で、普段よりかかった時間を取り戻すように、長船の足取りは早くなる。
完全に赤に変わってしまった信号から視線を移しても、あまり内容の見出せない視界の中で長船の背中が遠ざかりつつある。北見はそれをすぐに追いかける気にはならずに、この位置からでも木の陰から垣間見える高層マンションを探した。彼らの居宅である四階部分は隠れていたが、その四階で、夫の帰りを待ち遠しく待ち構えているだろう、隣家の妻の浮かれた姿がちらりと脳裏をよぎる。
……もしかしたら、一番可哀相なのは実のところ、あの四宮蓮の方なのかも知れない。
北見は、これまで起こり得なかった四宮蓮への憐憫が、僅かに――本当に僅か、爪の先ほど僅かに湧き上がった気がしたが、先で足を止めた長船の呼び掛けに応えるように早足で向かう頃には、夕餉の支度の脳内シミュレーションに余念がなく、結局のところ、北見の長船への評価と言うものが、当初感じたそれから著しく変動することはなかったのだった。
××××
『蓮を採る』‥採憐(ツァイリェン)。
蓮の音が、憐=いとしい、 と同じ発音となるため、採憐(恋人をとる)という意味。