= IVY =
瞬間、世界が揺らいだ気がした。
手術部長室に戻った長船が、奥の応接ソファで長くなっている蓮を見咎めるのに、さして時間はかからなかった。そもそもある時点から長船は、自分には蓮を見つけ出せる能力が備わったのではないかと思えるほど、蓮に関して感覚が鋭敏になったのを自覚していた。
だが、それはあくまでも『見つけ出す』能力であって、『捜し出す』ちからではない。蓮がたとえば、長船の及ばないはるか遠くに雲隠れしてしまったとしたら、きっと捜し出すことはできないだろう。
見つけることができるのは所詮、長船の目の及ぶ範囲での話だ。
朝から見かけなかった蓮は、長船に仕事を押し付けてふらふらして回ることが多い。そして、一人遊びに飽きた頃に戻って来ては、けれど奔放に振る舞う。まるで野良猫だ。
美しく強く、誰の手に抱かれることのない。
誇り高く、人間すら嘲笑う、野良猫。
首に鈴をつけられるのを嫌い、携帯電話の電源は切れていることが多い。長船の手にすら、長くは抱かれていてはくれない、野良猫。
今、こんな風に無防備をさらしてソファで眠っていても、長船の目が離れた瞬間に、ついと姿を消すのだろう。
手にしていた封筒の束を机に放り投げ、応接セットの向こうにある簡易キッチンに向かう。気分屋の蓮がいつ目を覚ましても良いように、ティーセットの準備はしておかなければならない。
何をして来たのかは知らないし、知る必要もなかろうが、こんな風に昼寝をした後はホットを要求されることが多かった。それを考えても、少なくともポットとカップを温めるための湯は必要になるからだ。
ヤカンをコンロにかけて、用のあるそうなカップとポットも揃えておく。
ここの所、紅茶の所望がなかったので、今日辺りお呼びがかかるかも知れない。
そんなことを考えながら一通りの用意をすませた長船はソファに近づいた。
両腕を枕にして仰向けに寝転がった蓮の寝顔は、普段から潜んでいる剣呑とも言える眼差しが伏せられていることも手伝ってか、やけに華奢に見えた。いつものふてぶてしい笑みを浮かべる口元もすんなりと一文字に引き締まっていて、尚一層の儚ささえ感じさせる。
傍で常に蓮を見守っていた長船でさえ、知らない表情があるのだと、そのことを惜しみも悔やみもしない。
蓮は蓮であって、長船の我侭など差し挟めるものではない。
だが、違わぬことを疑いもしなかった未来が、あの瞬間、猜疑に摩り替わったことは否定できなかった。
求めるものも、望む未来も、何ひとつ揺らがないと信じていた。
そのためにならば、自身の未来など捧げられる。いや、その未来こそが自分の望む道なのだと、いつの間にか信じていた。
「私には見えてなかったのでしょうか」
蓮を起こさないよう、細心の注意を払い、ソファの縁に腰掛ける。だが。寝起きの悪い蓮にはさほどの遠慮は必要なさそうだった。
それでも触れることは躊躇われた。
許されている立場とは言え、結局のところ、長船にとって蓮は神聖な存在であって、決して利己の及ぶ場所ではない。
正直、長船にとっての蓮の立場ではなく、常にイニシアチブを握っているのは蓮の方で、そこに介在するのは一方的な『従』に他ならない。
長船の生命線を掌握しているのは、絶対的な立場にいる蓮だけなのだ。
だからこそ。
そっと、指先で慎重に前髪に触れる。蓮の柔らかな髪は、指先に重みを感じさせることはなかったが、外科医の特権とでも言うべきか、鋭敏な感覚でもって、確かに蓮の呼吸を乗せたそれが揺れているのが知れた。
「あなた以外の誰も、意味がない」
四瑛会の頂点を蓮に捧げるために今まで生きてきたのに、弟を四瑛会の頂点に据えるのだ、と、蓮は事も無げに言った。
瞬間、世界が揺らいだ気がした。
目を覚まさないことで大胆になったのか、長船の手は弄んでいた前髪を解放し、やがて至近距離で寝顔を覗き込むまでになる。
そして安らかな寝息に、そろりと唇を寄せ、瞳を閉じて口付ける。
彼の弟も、あの少年のような外科医も、それこそ彼のかつての恩人など、どうでも良い。長船にとっての唯一は、蓮なのだ。
しばらくは口を合わせていただけだったが、何の反応も示さない蓮に苛立つように、長船は大人しい咥内に舌を差し入れた。
奥に引っ込んでいる彼の舌を絡めて引っ張り出し、甘噛みして捕らえ、思う存分なぶり始める。
息継ぎに口を浮かすと、溢れた唾液が濡れた音を立てる。
その感触に身震いを覚えた長船は、未だ眠り続けている蓮の襟元に手を忍ばせた。服の上から鎖骨を撫でながら、引っ掛けるように指先でボタンを二つ外すが、その間にも口付けは休めずに蓮の咥内を蹂躙していく。
くつろげた首元から手を差し入れて、鎖骨を人差し指の腹でかたちを確かめるように辿らせる。
それに飽きると、肌触りを楽しむように手の平全体で胸元を撫で行き、次第に深く深くと進んだその指先が胸の頂点に辿りついた時。
「そこまで」
蓮の声が制止した。
触れていた唇を離し、けれど態勢はそのままで長船は呟く。
「起きてらしたんですか……」
「寝込みを襲われたんじゃな」
寝起きとは思えない、しっかりした声に、最初から狸寝入りをしていたのだと思い知らされる。
蓮は決して隙を見せない。他人には。そして自分にも。
「怒ってる?」
いつもの、人をからかうあの笑みが目の前にある。
そんなこと、思ってもいないくせに尋いてくる。
「何を怒れば?」
蓮はふふっ、と笑う。悪戯に成功した子供のそれでいて、上体を乗り上げた長船の胸を軽く押した。
けれど長船はそれを許さずに、彼の手首を逆にとってソファに抑え付けたのだが、それすらも、蓮にとっては好奇心の対象に過ぎないのか、口を閉じたまま眼鏡の奥の感情を読もうとする。
「怒ってるんだろ?」
「いいえ」
うそつけ、と口が開かれる前に、長船は蓮の首筋に噛み付いてやる。
「………!!!」
晒け出された首の、左の頚動脈に歯を立てて、噛み跡を舌でなぶってから吸い上げると、蓮は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに口元に笑みを歪める。ぐっと、抑え付けられた手を押し返し、鋭いものを宿した両眼で長船を射抜いた。
「仕返しかよ」
一言の非難も抗議もない蓮の拒絶に、長船は従わなければならない。
ゆっくりと指から力を抜いて蓮を解放する。
彼の上から退き、起き上がる気配のない蓮の胸のボタンを留め直している間中、蓮は薄く開いた瞳で、興味の失せたようにどことも知れぬ虚空を眺めているだけだった。
だが、長船がボタンを留め終え、襟を正した頃にようやく、視線は合わせずに小さくぼそりと「ヤカン」、それだけを告げてそっぽを向いてしまう。
背後でかけっ放しにしていたヤカンが異常な蒸気を吹き上げていることに気付いて、長船はコンロに向かった。気取られぬように長い溜息を吐いて火を止めた後、ちらりと連を振り返る。
あなた以外の誰も意味がない。
蓮さん、知っていますか。
あなたが何を求めていようとも。
「長船、アールグレイ」
「はい」
ヤカンの中のほとんどの水は蒸発してしまっていたので、長船はもう一度、湯を沸かさなければならなかった。
このヤカンが再び蒸気を噴き出すころには、蓮の機嫌も少しは直っているだろうか。そうして、向き合って紅茶を口に含む蓮の首筋に、ネクタイを締めてさえ隠せない独占欲の跡を見つけられるだろう。
あなた以外の誰に求められようとも。
あなた以外の誰も必要ない。
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うじゃうじゃと、蓮くんの一言に翻弄されまくる長船と言う蘭蓮。