= 毒を喰らわば =
最近、関東進出を果たした四瑛会病院の廊下。
彼、は。どこか弾むような歩調で廊下を歩いていた。
年齢からしても、この組織で言うところの『ヒラ医者』。
若者と呼べる年齢ではないが、『医者』としてのキャリアからするとほんの若造の彼は、手術部長室へと赴いていた。廊下の窓から見える空はすでに暗く、冬間近の空気は身体を凍らせるだろう。
『四宮』 と言えば、関西で医療に従じる者ならば知らぬ者はいないほどの効力を持つ名家である。
その名家の三男、『四宮蓮』ともなると、もはや名刺要らずの効力を持っていて、それは、たかだか町医者の家系すらチンピラ扱いになるほどの、いわば『雲の上の人』となる。
『あのひと』も、本院ではそのくらいの立場の人で、言葉を交わすことはまず許されない。
彼が『あのひと』のことを知ったのは、四瑛会病院本院に勤め始めてからしばらくのこと。
『あのひと』が執刀医として入った緊急手術に人数不足で助手として入れて貰った時、『血筋』に恐ろしく厳しいこの病院で、四宮の血を持たずに執刀医を任される『あのひと』に、憧れを抱くようになった。
同僚も友人も、看護士も四宮一家を崇拝する中、彼は『あのひと』を追いかけるため、関東四瑛会竜宮病院への異動を願い出た。
「失礼します」
扉を二回ノックして、くぐもった声で中からどうぞ、と聞こえてから一呼吸置いて、彼は扉を開ける。
造りの良い内装の手術部長室の奥に向き合うように置かれた机に、『あのひと』はいた。
「蘭木先生」
声をかけると、相手は書き物をしていた手を止めて顔を上げた。
「あの、これを、院長から言付かって来ました」
言いながら机に向かい、抱えていた封筒を差し出すと、蘭木は無言でその封筒を受け取って確かめる。
確認すると、彼は顔を上げて柔和に微笑んだ。
「ありがとう。ご苦労さまでした」
「いえっ。蘭木先生もお疲れ様です」
青年は、自然と口角が持ち上がるのを自覚した。
そうしているうちに、すぐに書類へと視線を戻す蘭木に慌てて声をかける。
「あっ、あの、蓮先生は今日はお留守ですか?」
四宮家三男の名前に、蘭木はゆっくりと顔を上げた。
思いもしなかった言葉を聞かされた表情で青年を見上げ、薄く唇を開いて、
「……視察ですよ」
「蘭木先生はいつもお忙しそうですね」
矢継ぎ早に繋げると、蘭木は些か戸惑ったように彼を見る。
蘭木長船、は。
四宮家三男のお気に入りだとして名が知れている。
四宮蓮の気質は本院でも有名で、蘭木と言う男は、彼の後始末をして回っていると言うのがその殆ど。しかし、そうでもなければ、四瑛会で蘭木のようなただの医者には、何の力もない。
四宮蓮の後ろには必ず蘭木の姿があり、そうでない時は、蘭木は四宮蓮の代わりに病院で仕事に追われている、のが四瑛会での『当たり前』だった。
それは、関東の支店のここでも変わらないらしく、どうやら彼の言葉どおり、蘭木は今日も四宮蓮の仕事を肩代わりしているようだった。
「コーヒーでもお淹入れしましょうか?」
そう言う彼の眼差しは、すでに部屋の奥に注がれている。
蘭木が彼の意図を量り兼ねている間に、彼は奥の接待セットを見つけた。
気配に気付いた蘭木が、彼を止めようと声を上げる直前。
「何だ、まだ仕事してたのかい? 長船」
のんびりとした声がかけられた。
「お帰りなさい、蓮さん」
「やぁ、ただいまダーリン。今日も遅くまでご苦労さん」
「ええ。今日も遅くまで、蓮さんの残した仕事を頑張らせて頂いてますよ」
蘭木が聞こえよがしな嘆息を吐くと、四宮蓮は青年を軽く一瞥して、半眼をさらに細める。
「それで? 君は?」
にっこりと毒のない笑みを浮かべるが、その白々しい声音に、彼は牽制されているのだと直感した。
「院長からの遣いを言付かりまして……」
「へえ?」
四宮蓮はおどけるような声を出して小首を傾げてみせたが、すぐに飽きたように視線を避わして、奥のソファに腰を下ろすと、当たり前のように足を投げ出した。
「長船、お茶」
ぞんざいに手を振って寄越す四宮蓮の投げてくる言葉に、蘭木は仕方なく席を立つ。
「何にします?」
「………そうだな。
今日は、ラプサンスーチョン」
また突拍子もないものを、と内心で吐く蘭木ではなく、明らかに机の前で所在なく突っ立つ彼を向いて、四宮蓮は意味ありげに付け加えた。
「そんな顔するなって。
お前も好きだろ? 長船」
「………」
彼が、ぐっと飲み込んだ息の音を、蘭木はしっかりと聞いた。
それから四宮蓮を見て、そのやけに挑発的な目に内心溜息を吐く。
立ち尽くす彼へと再度目を向けて、事務的な口調で告げる。
「……君、ご苦労さまでした。もう戻りなさい」
とうとう蘭木にまで言われてしまうと、彼は仕方なかろうが従うしかない。
二人に いや、蘭木に一礼して手術部長室をすごすごと退室するその表情に、ありありとした不満が見て取れたが、蘭木はおろか四宮蓮も何も言わずにそれを見送った。
「長船がコーヒー党だったなんて知らなかったね。
一体いつからだっけ?」
「からかわないで下さいよ。
向こうが勝手に言い出したんですから」
「へぇー。そりゃ、大した親切だねー」
大袈裟に肩をすくめる蓮に、長船は黙ってティーカップを差し出した。
こう言う態度の時は、ひどく機嫌を損ねているらしく、無理に繕おうとすると逆にこじらせることが多い。
蓮のわがままな気質には慣れたつもりでも、きっかけや原因は往々にして図れない。
長船からの応酬がないので、蓮は僅かに眉を顰めた。
「それで、さ?
あの坊や一体、何て子?」
「さぁね。知りませんよ、私は」
ラプサンスーチョン茶を一口啜る蓮の問いに、長船は小さく首をすくめてそれだけ答えると、ポットをテーブルに置いて仕事に戻ってしまう。
「………ふーん」
蓮は頬杖をついて、机仕事を再開する長船を眺めていたが、すぐに飽きてしまうと、身体を捻り、頭の下に組んだ両手を敷いて、仰向けに寝転がる。
ご機嫌は今ひとつ斜めだが、今までの傾向からするとこれはすぐに直るだろう、と、横目でソファを盗み見て判断した長船は手元に視線を戻した。
蓮は瞳を閉じると、こっそりと長い溜息を吐く。
その程度なら、とりあえずは見逃しておいてあげよう。
内心でそんなことを呟く。
ただ、人のものに手を出そうなんて、良い趣味してるんなら、次はそうは行かないけどね。
聞こえない相手に警告を発してから、
「長船はコーヒーなんて飲んだっけ?」
目を閉じていたから見えなかったけれど、声から察するに、憮然としているのか、
「そりゃ、何でも飲みますよ」
閉じた瞳の裏側に、さっき見た首をすくめる長船が見えた。
「毒さえ入ってなけりゃ、ね」
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蓮くんだけじゃなくて、長船に憧れる若者がいても良いんじゃなかろうかと。
しかし一番のライバルは、長船なんだろーなー、蓮くん的には。