◆◆ しずか な といき ◆◆
出来るだけ大きな音を立てないように気を配ったつもりだったが、ドアを開けた時に部屋を見た視線がばっちり合った。
瞬間。うわ、と思ってしまうのは日頃の行いが悪い制で、テルは我知らず身体を縮こませたが、相手はすぐに興味なさそうに手元の紙束に視線を返した。
テルはほっと胸を撫で下ろし、自分が陣取ったベッドに着替えを置く。
それとはまた違う種の安堵を吐き、着替えと荷物の整理を簡単に済ませる。
深夜にほど近いホテルの一室。
初めは太っ腹な理事長がツインを用意してくれると言っていたが、当の外科部長が断固突っぱねた。
確かに問題児との相部屋にも問題はあるが、たった一晩我慢すれば良いだけのことで、そのためにかかる無駄な経費の上乗せを嫌ったためらしい。
その外科部長は先にシャワーを済ませて、今また几帳面に翌日の(もうそろそろ、今朝の、だが)学会に発表する書類を確認している。
自分には微妙に丈余りな浴衣は、北見には窮屈そうに見えた。
それを折り目正しく、まるでいつも着ているスーツのようにぴしりと着こなしている北見は、背景だけが違うだけで病院にいるのと同じに振舞う。
そうした息苦しさには慣れてしまったのか、テルは気にならない様子で、どうしても上手に着こなせない浴衣の胸元を締めるように合わせた。
着替えを詰め込んだバッグをベッドの足元に置くため下を向いた拍子に、額から水が滴り落ちた。
たまのホテル宿まりなのだから、ついでに髪も洗っておいて念入りにタオルで水気を拭き取ったつもりだったのに、後から後から頬を伝い落ち続ける水が床を湿らせていく。
今日は一日本当に色々なことがあって、身体は疲れきって休息を欲している。
正直身体を動かすのも億劫で、ちゃんと乾かすべきかどうかと十秒考えて、もう良いやと諦めた。
枕にタオルを敷いていれば悪い事態になることはないだろう。一日のことだし。
そう決断して、もそもそと掛け布団に潜り込む。
上体を起こしたまま北見に断りをいれようと頭を廻らせると、彼はなぜか物言いたげな表情でこちらを見つめているではないか。
「……………お前………」
「は?」
「まさか、そのまま寝るつもりか?」
「……………………なんで?」
ぽかんと呟く。
すると北見は鈍痛を堪えるような表情を浮かべ、重苦しい嘆息を一つ。
「?」
「こっちに来い」
「もー寝たいんですけど……」
「髪が濡れたままか?」
「……いっつもそーですよ?」
「枕に黴生やす気か。
――来い」
「……………………」
生えるわけないじゃん、と心の中で毒づくが、決して口には出せないことを判っている。
そして、北見のこの手の命令に逆らえるはずもないことも判っている。
観念したテルがそろそろとベッドから降りると、北見は持っていたブ厚い書類をサイドテーブルに置き、ドレッサーの椅子に座るように指示された。言いつけどおり大人しく待っているテルが対面する鏡の向こうで、北見がドライヤーを手に洗面所から戻ってくる。
信じがたい想像に目を見開くこちらの動揺になど一切取り合わず、北見はテルの髪にドライヤーを当てるではないか。
びっくりして振り返ろうとすると、がしりと頭頂部を鷲づかみにされた。
『 お と な し く 、 し て い ろ … … ! 』
その力加減が北見の心境を如実に語っていて、テルは背中に棒を突っ込まれたようにぴんと背筋を伸ばして硬直しくするしかなかった。
頭を掴んでいた北見の手は、そのままそっと髪を梳き始めた。
いつも殴ったり、殴ったりぶったり、殴ったり。
乱暴なことしかし(でき)ない北見の手が、今はくすぐるように髪を梳いている。
信じられないほど柔らかなその感触に思わず気持ち良さを感じて、誘われるように瞳を閉じると、耳障りな機械音すらまるで子守唄の様に聞こえてくる。
「……………なんか、すっげ ぇ………気持ちいい〜……
……美容院って、こんなカンジだよな………行ったこと、ないけど……」
なんだそれはと思いながらも、そう言えば一度聞いてみたかったことを思い出す。
「お前、何でここだけ染めてるんだ?」
北見は色の違う前髪を乾かしながら、テルの額に手を当てて顔を上向かせる。
――が、返事はない。
「…………コイツ」
ピキン、と。音を立てて、こめかみに筋が一本入るのを北見は自覚した。
いつの間にやら寝入ってしまったテルは、実に能天気な寝顔で舟をこいでいる。乾かされて柔らかな髪質の毛がふわふわと風に舞う感触すら気持ちいいのか、肩を揺さぶられても目を覚まさない。
「……………」
とりあえずドライヤーの電源を切った北見は、誰に聞こえるでもない溜息を一つ吐いた。
「………起こした方がうるさいか」
そう結論して、テルの身体を横抱きに抱え上げ、完全に気も力も抜けた小さな身体をベッドに横たえてやる。涎でも垂らしそうな寝顔は手放しで、無防備を通り越して呆れすら感じてしまう。
確かに今日は大変な目に遭った。
北見でさえ振り返って嘆息を吐いてしまうのに、テルにかかったストレスは計り知れない。
そんなものを考慮した北見の、前髪を梳かしつける手がくすぐったいのか、テルは眠ったまま平和そうな頬をさらにだらしなく緩める。
その寝顔に北見が苦笑を漏らして身体を離そうとすると、引き止められた。
「………おい」
つい眉を顰めて呻くが、相手は完全に夢の中。だと言うのに、北見の浴衣の襟を掴む手はそう易々とは解けないほどの強さだ。
「こら」
聞こえてないと知りつつも抗議の声を上げる北見。
しかしその声に意味を感じ取ったのか、襟を掴む手を放さないテルは、身体を離そうとする北見に身を寄せてきた。
本格的にしがみついてくるテルに一瞬で苛立ち、殴って起こして寝かしつけようと北見が判断したその拍子に、テルは小さく身じろいだ。
浴衣を握り締める指に力がこもる。
「…………ぉ……さ…ん…………」
たとえば。
食み出すような笑顔は嬉しいとき。
不満があるときは肩を強張らせて。
持続しない怒りは瞳に炎を灯らせて。
そして。
辛いときは我慢する。
泣き出しそうになるのを、ではなく。
寂しかったり、悲しかったり。
そんな感情を、精一杯喉の奥で噛み殺す。
涙を流すのは、悔しいとき。
見下ろす子どものような顔は、そのどれとも違う。
今まで見てきた色々な感情のどれにも当てはまらない、けれど、言葉で表すならばたった一言。
切ない。
と。
きっと自分でさえ気付いていないその表情は、こんな風に、真夜中に唐突に現れるのだろう。
「… …… …… …」
何か、聞き取れない呟きをいくつか吐いて、テルの手は緩められた。
それでも襟にかけられたままの指は、もう解くことすらせず、北見は嘆息を漏らす。
電気だとか、拡げた書類だとか、色々なものを放り出したまま、北見はテルの肩を抱いてベッドに潜り込んだ。
掛け布団を直していると、腕の中の小さな身体が居場所を探すように擦り寄ってくる。実のところ、眠っている人間の体温をこんな身近に感じたのは初めてで、その感触が、懐かしいような気持ち良いような、笑い出したくなるような感情を思い起こさせて、北見はテルの髪に顎を埋めた。
……肌から感じるぬくもりが、心地よい心音を伝える頃。
北見もまた、白じんだ微睡から誘われるように眠りに途いた。