■ 花 冠 ■
ベッドに入って一息ついてから、テルは隣の北見を窺った。
身長が高いだけで、北見は決して大柄ではない。
逆に驚くほど締まった筋肉と長い手足のせいで細身に見られがちだ。そしてテルもまた脂肪のつかない細身の身体だからか、二人並んだダブルベッドにはまだ余裕があるように見える。
(縦幅がちょうどの北見に比べて、テルは横に加えて縦にも余裕があるようだが)
「………」
枕に頭を落ち着けた北見は、早くも眠りに入ろうと瞳を閉じていた。
身体も心も満たされた後は休息のための眠りだ。それも、一番大事なものを手元に抱いた幸せな休眠。
「北見先生」
「……もう寝ろ」
激務を終えて食事を済ませ、たっぷりと二人きりの時間を過ごした後。
お互いが満足するまで睦合い、疲れた身体をようやく休めようとしている時だ。北見はテルを見る事もなく言いつける。
「ちょっと……」
もごもごと歯切れの悪い調子で濁したテルが北見の身体の上に乗り上げると、即座に迷惑そうな視線で睨みつけられる。
「ちょっと……ちょっとだけ……」
鋭い眼差しから逃げるように北見の耳元に顔を沈め、彼の耳のすぐ下から顔の輪郭に沿って口付けを落として行く。
そして唇で顎を撫で下ろして首筋に辿り着いたテルは、北見の逞しい首にキスマークを――
「おいこら」
「いっ――ででででで!!!」
つける寸前、北見の手がテルの顎を掴んで上に突っぱねた。
「もげる!
首がもげる!」
「お前の首は発砲スチロールか」
「北見先生の腕力が凶暴なんですよ!」
それでも体勢は崩さずに、テルは喚く。しかし北見も負けずにさらに力を篭める。
前々から思っていたが、テルの火事場の馬鹿力は侮れない。時に北見の暴力を凌ぐ反抗を見せては、彼を辟易させる。
「………ちょ……い、い加減にしてくれないと、
ム、ムチ打ち……になる………」
「ちょうど良かった。
脳脊髄液減少症についての研究をしたいと思っていたところだ」
「どこまでの衝撃を加える気ですか!」
「労災にしておいてやる」
平然と言い捨てる北見の顔は至極真面目だ。その表情の冷たさに本気を感じ取ったテルの背筋がぞっと凍る。
慌てて身体ごと後ろに退いたが、その時の北見の眼差しが残念そうだったことは無理やり見ないことにした。
「……何でそう、北見先生は乱暴なんスか」
「なら、腕力に訴えようと思わせるな。誰のせいだ」
「大体、何で嫌がるんですか。
キスマークくらいいいじゃないですか」
「外傷性脳損傷についても臨床試験を行いたいと思っていたところだ」
「目的変わってきてません!!!?」
「これ以上ごねるならベランダに締め出すぞ」
「虐待だ! DVだ!」
いや躾だと、呆れた呟きは胸にしまっておいた。さらに、望まない行為を強いられたのはこちらが先だと言いたい気持ちを抑えて、北見は嘆息を漏らす。
それを何と勘違いしたのだろうか、テルは途端に気勢を削がれた様子で、北見の上から静かに引き下がった。
「北見のけち。
ちゅってさせてくれるだけでいいのに、けち」
「………」
口を尖らせた拗ねた顔で恨み言を吐くこの子どもをベランダに蹴り飛ばしたとしても、自分に非はないのではなかろうか。
「ねー、良いじゃないですかー。
髪で隠れるところに小さくしときますから、
首にキスマークつけさせて下さいよ」
「却下だ」
「……もー!
だからっ、何でそこまで嫌がるんだよ!」
テルは短気ではない。普段の素行から勘違いされがちだが、彼は非常に気が長く、我慢も辛抱も得意な方だ。
しかしなぜか北見が絡むと途端に短気になる。北見との会話の齟齬に苛立ち、気持ちのすれ違いに焦れてすぐに寛容でいられなくなる。
単純に北見と性格の不一致による衝突と思われがちだが、実際は北見への甘えがテルの忍耐を揺らがせる。
だからこの時も、要求が通らない苛立ちがすぐに我慢の限界を振り切って逆ギレに発展するのだが、北見にしてみればこの流れはすでに飽き飽きだ。
「目敏い連中に目をつけられてみろ。
根掘り葉堀り聞き出そうと付き纏われるに決まってるだろうが」
「めざといって……」
真っ先にテルの頭によぎったのは、麻酔科水島の好奇心に満ちた笑顔。
そして韮崎と青木(これは巻き添え)。さらに、普段は他人には無関心だが北見のこととなると理性を失う四宮。下手をすると運悪く通りがかった院長や、水島達からの連絡を受けた理事長にまで拡散される恐れがある。
思いつく限りの人間から質問責めにされる最悪のシナリオをシミュレーションしてしまった北見は渋面を浮かべるのだが、生憎テルには些かの想像力も足りないらしい。納得できないとばかりに眉を曇らせる。
二人の関係は隠しもしていないが、大っぴらに公表しているわけでもなく、聡い者ならば気づいているだろうと北見は諦めている。隠しはしないし否定もしないか、やはり好奇の目に晒されることは本位ではない。特にテルは子ども時代の事故がもとで心に深い傷を負っているのだ。
テルへの影響への配慮に加えて、北見自身私生活をあれこれ詮索されるのは好きではない。特に人を躱すことが苦手な彼だ。唯一の自衛法は、つけいる隙を与えない、の一言に尽きる。
何しろ水島の追求は北見の怒りをものともしない。
愛らしくも邪気のない笑顔のままで、まるで好奇心が人の皮を被ったようにあれこれと詮索して回る。
テルも何かあればすぐに北見の周りをちょろちょろとつつき回したがるが、彼に関してはしつこさだけ我慢すればいい。飽きればすぐに忘れてしまうのは、テルの短所であり長所さだと北見は思っている。だが水島は違う。
彼女は諦めない。彼女自身が満足する答が得られるまで諦めないし、追求の手を緩めない。それが誰であろうとも。
時々言葉が通じていないんじゃないかと思う時すらあるほど、北見にとって彼女は敵にも味方にも回したくない存在だ。
『だから面倒なんだ……』
もはや不吉なものの象徴になってしまった水島の笑顔を思い浮かべては、北見の胸に苦いものが湧き上がってくる。
しかしテルは違うことを考えているらしかった。拗ねていた唇は噛みしめるようにへの字に曲がっていて、半眼で睨むのは北見ではないどこか別の場所。
「……だって…」
いい大人が「だって」を使うのは、テルだからこそ許される。こんなに「だって」が似合う成人男性もそうそういまい。
「だって、跡つけとかないと、北見がオレのだって分からない……」
「………は?」
「キスマークつけてたら、北見がオレのだってわかるだろ」
「は?」
二回目の「は?」には、若干の苛立ちが含まれていた。
「お前、人の話を聞いていたのか?」
「聞いてるよ!
だから、目立たないところにつければ問題ないだろ」
北見髪長いから絶対隠れる、大丈夫! などと意味不明な自信に満ち溢れているテル。
いよいよこいつは馬鹿なのかと、北見は心配になるのだ。
医者と言う職業には適性が必須だと思っている。
確かにテルは、磨けば磨くほど光る才能を持っている。それは認めるし、彼の前向きな情熱は患者の存在があるからこそ発揮されることは今までの経験で嫌と言うほど理解している。
だが、果たしてそれだけが医者に必要なスキルだろうか?
重要な技能であることは認めざるを得ない。だが医者として、いや、人としての根本的な能力もまた必要ではないか?
例えば判断力や分析力。他人の言葉に耳を傾ける柔軟さ。
北見はたまに不安になるのだ。
彼らの職場である安田記念病院には、あまりにも人の話を聞かない医師が多いことが。
『このガキを筆頭に――』
目の前で主張を譲らないテルと、彼と何を争っているのか分からないが時に鬱陶しい四宮。上司でありながら北見の管理を必要とされる院長。岩永のストレスと胃痛の原因である麻酔科医二名……院内ですらキリがない。
そんな中、北見は一人主張する。
もはや彼らは仲間ではない、敵だ。
そう決着すると、不思議と全ての物事が簡単なことのように思えてきた。
「だからっ。
首と鎖骨の上につけていいだろ?」
当然の権利を訴えるがごとく要求をさらに増やす、人の話を聞かない部下――いや、これはもう部下ではない。
敵だ。
北見はテルの目を見つめ返して、考えるように瞳を細めた。その動作に緊張したテルが、無意識に唾を飲み込むほどの時間をかけて、ゆっくり肺から息を絞り出す。
「……いいだろう」
「ほんとっ!!?」
俄然色めき立つテル。
こう言った表情の変化は北見ですら微笑ましく思う。だがここは心を鬼にしなけらばならないと、北見は己に言い聞かせる。
「じゃあさ、じゃあさっ。
首とー鎖骨とー、あと二の腕もいい?」
「……まあ、良い」
なぜかさらに要求が増えていることに釈然としないものを感じながらも頷くと、テルがぱっと顔を輝かせた。
「北見先生、今日どうしたんですか。優しい!」
いや違う。
単に『寛容を装っているだけ』だ。
「あ、でも水島先生に見つかったら困る?
北見、水島先生苦手だろ。
オレは耳の裏とかでもいいけど――」
「お前の好きにしろ。
水島先生にはきちんと説明してやるから」
「…………せつめ、い?」
「お前が家に来たところから、ここに至るまでの経緯を。
事細かに、丁寧に。
お前がどんな風にオレに抱かれて、どんな顔をして、
どんな声で何を言ったか、何をされて達したか、
できるだけ 事 細 か に、
説明してやることにする」
噛んで含めるような北見の言葉を、テルは始めぽかんと聞いていた。
分からないとでも言うように何度か瞳を瞬かせて、北見の言葉を反芻、理解し、そして――
「……………なっ………!!!!!」
暗い室内でもはっきり分かるほど肌を真っ赤に染め上げたテルは、まさに絶句した。
口は大きく動くが、肝心の声は出てこない。湯気でも出そうな顔面とその狼狽えぶりは、過呼吸でも起こすのではと北見ですら心配になった。
「――んっ、なっ………!!!?
な、なななな、な……っ、
き…きたっ……きたみっ!!!」
「紙袋いるか?」
「いるかっ!!!
せ、せせせ、セクハラ! 北見のセクハラ!!
職場でそう言ういやらしい事を言ったり見せたりするの、
セクハラになるんだからな!」
すぐ近くでキャンキャンと小型犬のように喚くテルに反して、北見は冷笑を浮かべさえしている。
「あの水島が、セクハラだ?」
「……………」
あっさりと沈黙してしまうテルが愉快だった。
水島は、真実に辿り着くまで諦めない。他人事である限り、彼女に恐れるものは何もない。
セクハラ? 多少の猥談はむしろリアルさを引き立てるためのスパイスだ。彼女は 全く 気にしない。
それがテルにも想像できたのだろう。すっかり勢いが萎んでしまうと、後は混乱した様子で狼狽えるだけ。
北見は完全に息の根を止めてしまうための最後通牒を告げた。
「それで?」
「……………………
なんっ……でも、ないで……す」
「本当だな?」
「……………ッス……」
「ならもう寝ろ」
不承不承頷くテルの顔に溜飲を下げることにする。
さすがにここまで完全に潰されてしまうと、往生際の悪いテルでも諦めざるを得ないのだろう。もそもそと北見の懐に小さく収まる。
これでやっと落ち着いて眠れると嘆息する胸の上に、テルが擦りつけるように頭を寄せてきたので腕を回して肩を抱く。すると先ほどまでの蟠りなど吹き飛ばしてしまったのか、嬉しそうに笑う声が聞こえた。
それは北見が抱えていた苛立ちをも拭い去り、あっと言う間に彼の温もりに安堵する。
結局のところ、北見はこれを手放したくはないし、手放すことなど想像もできない。
ただこの温かな身体が手元にあり、目が合えば笑いかけてくる。ほんの少し前では考えられなかった穏やかな空気が、今、北見とテルを繋いでいる。
テルが自分のものであること、自分が彼のものであること。
それは今更確認できない不文律だったが、この一件で謀らずも、テルが北見と同じ意識持っていることが確認できた。
彼は頭を悩ませることが多い部下ではあるが、それ以上の喜びを北見に与えてくれる。
だから北見もまた、テルに所有の証をつけてやりたいと思案していた。四宮への警告と言うのは考えすぎとしても、テルはもう売約済みであることを主張しておきたいと。
肌を重ねる度、彼の首筋胸元をきつく吸い上げて痕をつけてやろうと企む北見を制するのは彼の胸の手形。
テルが、そして安田が尊敬して止まない真東光介の遺した形見。
彼の身体を暴き、自分のものにした所で、その傲慢を打ち砕く存在感はいつも北見の下心を見透かしたタイミングで現れる。
例え身体を失っても、魂はテルの胸に宿っているとでも言うように北見を牽制している。
彼の被害妄想だとしても、それはテルに、男に身体を開かせることを強要した後ろめたさと罪悪感の成れの果てだ。それが昇華されない限り、テルの胸の手形は北見に居心地の悪い思いをさせるだろう。
腕の中で気持ち良さそうな寝息を立てるテルを見下ろす。
今にも涎を垂らしそうな、すっかり無防備な寝顔を微笑ましく思う反面、ちくりと痛む後悔。そして湧き上がる苛立ち。
人の気も知らずに、とお門違いの恨み言を胸中で吐き捨て、柔らかそうな頬を抓り上げてやろうかと一瞬考えた。
けれどふと頭を過った企みににやりを口角を上げて、北見は良くない笑みを浮かべるのだった。
* ** * ** * ** *
「テル先生、韮崎先生知らない?」
翌日、昼前の医局で声をかけられたテルは顔を上げた。
今日もまた救急カートを引っ繰り返して大目玉を頂いたテルは、デスクで書類の整理を言いつけられていた。
自業自得とは言え、テルにとっては非常にストレスの溜まるこの作業はまさに拷問だった。
「韮崎先生?
ここには帰って来てないと思うけど……
急ぎなら呼び出してもらったら?」
「ううん、仕事のことじゃないから後でいいんだけどね」
水島は笑って彼の手元を見下ろした。その惨憺たる荒れ具合を見ないようにして、大変だね、と口ばかりの労いをかける。
「カート倒したのは悪かったけど、
30分間コースの説教と拳骨に加えて書類整理は横暴だよな!」
いや妥当でしょ、むしろそれで済んでる所が不思議、と水島は声には出さずに即座に否定する。
テルも懲りない性質だが、北見の辛抱強さもまた尊敬に値する。
(これも、北見は水島に言われたくはないと思うだろう)
「ところで水島先生、今ひま?」
「ううんー。
お昼早く済ませて、
午後の予定手術の準備しなきゃいけないからー」
「えー書類整理手伝ってよー」
「お昼早く食べなきゃだからごめんねー」
少しも悪びれている感じがしないのはなぜだろうか。
「えぇぇぇ―――」
多少の期待をしていたテルは、呻きながら机に突っ伏してしまう。
「ごめんねー……
あれ、テル先生?」
「は?」
水島が指差したのは、顔を上げたテルの首筋。
「それ、鬱血?」
「………?」
「首に。
鬱血って言うか、キスマーク?」
「…………っはぁ??」
何だって?
首に…?
キスマークだと??
「っっっっっっ!!!!」
水島の言葉を頭の中で反芻してゆっくり理解した瞬間、『キスマーク』の単語を引き金に一気に蘇った深夜の記憶。
『お前の好きにしろ。
水島先生にはきちんと説明してやるから』
『お前が家に来たところから、ここに至るまでの経緯を。
事細かに、丁寧に。
お前がどんな風にオレに抱かれて、どんな顔をして、
どんな声で何を言ったか、何をされて達したか、
できるだけ 事 細 か に、
説明してやることにする』
北見の言葉とともに、その時にも思い出した情交の断片もまた思い出してしまう。
久し振りに欲情して、押し倒す勢いで北見を寝室に誘ったこと。
あまりの必死さに北見の加虐心を煽って、一人でしてすることを強要されたこと。
北見の視線に感じながらも達することは出来なかったのに、キスだけであっさりと達してしまったこと。
北見の言いなりになって口で奉仕させられたこと。
ありとあらゆる卑猥な言葉で責められた以上に言わされたこと。
最後に泣き叫びながら好きだと言った言葉に、満足そうに笑ったこと。
それらが全て、雪崩のような勢いで一度に襲って来たのだ。テルは身体を真っ赤にしてぶるぶると震え出す。
「テル先生?
大丈夫??」
「だっっっつ!!
だ、だだだだ、だ、大丈夫!
何でもないっっ、へ、平気!!」
首を傾げる水島の声に我に返る。
いや、だが、一体いつだ?
あの時は、自分が北見にキスマークをつけると言う話だったはずだ。
それがなぜ自分の首に?
疑問符で思考回路を埋めたところで、昨日の今日で、相手は北見しかいない。
あの男は、さては自分が眠ってしまった時を狙ったのだろうか。あれだけ自分で拒絶をしておきながら? いや、だから?
あらゆる可能性が脳内で錯綜する。
が、いま一番大事なことは答を出すことではない。
「やぁだー。
そんな真っ赤になるってことはやっぱりキスマークなんじゃない。
ちょっともう、テル先生ってばあんな鈍そうなのに、意外ー」
「ちっ……ちがっっ…!!
違う違う違う違う違うっっっ!!!
そう言うんじゃないからっ!
全っっ然っ、そう言うのじゃないから!
これ違うから! ただの虫刺されだから!」
「やぁねーテル先生。
医者が虫刺されと鬱血を見間違える訳ないじゃない」
慌てて大声で訂正するテルだったが、笑っていた水島の表情が後半で恐ろしいほどの真顔になったことに思わず怯んでしまい、抵抗を封じられてしまった。
「だれだれー??
ねえ、誰につけられたのそれ?
あたし達の知ってる人? ねぇねぇねぇ。
いいじゃない教えてよ、ねっ!
相談乗るから、ちょっとだけおしえてー」
「いや……ちょっ。
その、水島先生ちがっ、本当っ、違うから!」
「だーいじょうぶ!!
誰にも言わないから、ねっ?
応援するし何でも聞いて!
だから名前教えてーイニシャルで良いから」
完全に圧されてパニック寸前のテルは、しどろもどろと「ちがう」だの「だから」だの繰り返しているが、水島は追及の手を逃さない。
特にテルの場合、混乱している時こそ口を滑らせやすいと見抜かれているのか、普段にない勢いで攻め立て、パニックを煽って一気に畳み掛けてくる。このしつこさと無邪気な質問攻めには、あの世渡り上手の四宮でさえ尻尾を巻いて逃げ出すほどだ。
彼女にかかれば、人一倍要領の悪いテルなど赤子の手をひねるがごとく。
完全にペースを握られて、言い訳する呂律も回らなくなってついにテルがうっかり北見の名を滑らせる寸前、
「水島先生」
まるで空気を寸断するような鋭い声の主など一人しかいない。
「あ、北見先生ー」
今のテルには非常に心臓に悪い名前だ。何をされたわけでもないのにびくりと身体を震わせる姿は、水島が見ていればいい標的になるに違いない。
「岩永麻酔科部長が呼んでいたぞ」
北見はテルには一瞥もくれず、医局の入り口から外を示して水島を促す。
「えー……はぁい」
いい所だったのにぃ、などとぶつぶつひとりごち、水島は途中で一度何か言いたげに振り返ったが、隣で睨みを効かせている北見に恐れをなしてか、大人しく去って行った。
テルはその背中をじっと見送って、完全に人の気配が失せたことを確認すると、緊張とともに肺に溜まった息を一斉に吐き出した。
「…………………っあぁああああ―」
「もっと上手く誤魔化せ」
もう一気に三年は老け込んだ気がするテルが席で項垂れる後ろを通り過ぎた北見が、そんなことをしれっと吐いていくのはさすがに癪に障る。
「だ! 誰のせいだと……!」
沸騰する怒りで再び顔を赤くして北見に怒鳴りかけた所で、テルははっと言葉を詰まらせた。
視線の先の外科部長が、その長い指先で首筋を示して『何か』を示唆したからだ。
彼が指した箇所と同じ場所に、北見が残した所有印がある。
それがテルの脳内で直結された瞬間、見てもない気づきもしなかったその鬱血が、途端に焼かれたような熱を持った気がした。火が出ないようにか熱さにか、鬱血を覆う手に力が篭る。後で酷い痣になるかも知れない力も、北見の施した熱には敵わない。
「だっ………だ、だ、だれが……こんなことっ…!」
「昨夜お前がやろうとしたことだ」
「…………な……んっ……!」
「これで分かったか?」
「………?」
「あれをまた言い出すなら、次は助けてやらんぞ」
「……み!
見てたんならもっと早く助けろよ!」
赤くなったり青くなったり忙しいテルの百面相は見ていて本当に飽きない。
だが、どんなに水島に圧されてしどろもどろになっても、北見の名前を滑らせなかった頑張りは褒めてやっても良いとは思っている。それを言うとまた血圧を上げてしまうのだろうが。
「思い知ったなら、もう二度とくだらないことを言い出すな。
――分かったな」
「……………ゥス……」
比喩でなく口を尖らせるあの顔は、絶対懲りていないことを北見は知っている。
素直な部分も多いはずなのに、なぜかテルは北見がやめて欲しいことばかりに頑なになるし、改めない――いや、改めはするのだ。確実に悪い方向に。
そして北見の頭痛の種を増やしてくれる。
しばらくは大人しくはしているだろうが、それも保って一月と言うところだ。
その頃になれば彼の主張は斜め上の方向に発展して、北見をまた悩ませるだろう。
訪れるその瞬間の疲労を今から思い遣りながら、いま少しは自分の所有印にびくつくテルの姿を楽しんでおくことにしよう。
「テル」
「………はい?」
「鎖骨の上にもつけてやろうか?」
「………………ばっっっっっっ!!!!!」
そして一気に沸騰する血液と血圧に、そろそろ倒れてしまいそうなテルの悲鳴が響いた。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
はなかんむり ではなく
かかん と読むんですね
でも何か似たようなの書いた気がする、気のせい気のせい