■ pay ■




1. pay back



望みすぎたことがある。
苦しみを与え、逃げ場を塞ぎ、どこまでも追い詰めたことがある。
思い遣る気持ちも失くして、ただ求めるまま、過ぎるほど望んだ。
涙すら零さなくなったあとで、苦しいのだと呟いた声にすら背を向けた。

それから、さほどの時間は経ってはいまい。

傷が癒えるはずもない短い時でも、泣き喚いていた顔が今は微笑む。固く握り締めていた指先で触れてくる。

忌避しか紡がなかった声で、好きだと告げる。


報われた想いに対する報いは受けるべきだ。







食事の後片付けは許されていない。北見が食器の破損と損壊を嫌ったからだ。
いつだったか「コレールの食器セットにしてやろうか」と言われたことがあったが、なんらかの侮辱を受けたらしいテルには通じなかったらしく、残念ながら買い替えは実行されていない。
北見がキッチンで几帳面に食器を洗う音を聞きながら、ソファに凭れる。
床に腰を下ろしてソファの足に背中を凭れるテルを、北見は不思議がり、揶揄した。ソファに座れば良いだろうと首を傾げられて、埋もれるから嫌だと断ったテルの顔はよほど面白かったらしい。肩を震わせてまで爆笑されたのは最近のことだ。

「………………」

テルは感情の起伏が激しい。
何事をも素直に感じて率直に表現することは彼の美徳であり長所、そして欠点でもある。大人になることで感情をコントロールできるようになってきたものの、やはり制御しきれないほどの感情の揺れには上手な対処ができないままだ。
そして最近になって気づいたのだが、その多くが北見に関する感情であることが今の彼の悩みに繋がっていた。
支配されることの苦悩は嫌悪で済む。ただ相手を憎むことで正当化できるからだ。
しかし、苦しみからの解放は多くの戸惑いと、底のない不安を生んだ。




 ++++


「――なぁー、一回だけ。一回だけで良いからさ!
 会ってみてよ北見ちゃん!」

「だから、前回の時にお断りしましたよね。
 あれで最後だと言ったはずですが」

昼間、忘れ物を取りに戻った医局で珍しく院長の声を聞き付けて、テルは思わず戸口に張り付いてしまった。応対する北見の声音に苛立ちを感じて、その八つ当たりを食らわないように身体が反射的にとった行動だろう。
無理を通そうとする院長と抗議する北見の図式はテルでも知っている。
寛容ではない北見でさえ、上司である安田のほぼ命令に近い「お願い」には折れざるを得ない。
しかし、時に厳しく正論を説き、借りを作るかたちでようやく要求を呑むポーズを見せる北見も、相当性格が悪いと思う。

テルは戸の陰からそっと覗った。
こちらに背を向けている院長に、険しい表情の北見が何かを押し付けている。こうしてはっきりと拒絶を示している北見は、安田の要求を飲む気はないらしい。
安田は北見から突きつけられたそれを受け取って眺める。テルはやっと、それが誰かの写真だと分かった。

「可愛いお嬢さんだろ?
 会っても損ないぜー、俺があと10歳若けりゃ……」
「相手がどうだと言う問題ではなくて、
 こう言う話は金輪際持ってこないでくださいと――」
「覚えてるけどよ、どうしても今回のは断れなくて……」

「断ってください」
「付き合いってモンがあるんだよ。本当、この通り!」

安田は勢いよく手を打ち合わせて拝んで、北見に禿げた頭を下げる。

「……いやしかし――」
「な! 本当! 本当の本当に、これが最後!
 これで最後にするから! 絶対!!!!!
 じゃ、来週な!」

強固だった態度が困惑に変化した瞬間を見計らって一方的にまくし立てるや、北見の返事も了承も待たずに、安田は医局から逃げ出した。慌てて扉の後ろに隠れたテルのことには気づかず、彼にも勝るスピードで廊下を走り去って行った安田を、看護士の悲鳴が追いかけるのを、テルは半ば呆然と聞いていた。

北見の見合いの話は、今に始まったことではない。
安田の噂もさることながら、その懐刀と呼ばれる北見の存在は病院立ち上げの時の支援者、医師会の間で知らない者はなく、容姿、学歴、職業、全ての条件が揃った男に持ち込まれる縁談は引きも切らない。
しかし、半日だろうが一日だろうが、集中を切らさずに手術室にはこもれる男は、たったの数時間でさえ一人の女性と向き合うことが苦手だと言う。以前に比べるとその数も、仕事が忙しいことを理由に断り続ける北見の地道な努力(?)で減ってきている。
しかし、安田でも断れない縁の件については、北見一人の力ではどうしようもない。。
安田のあの押し切りは、恐らくその手合いなのだろう。拒否を貫いても、こと院長命令となれば北見は従う。

だからと言う話ではない。

漠然とした不安を抱えるようになったのは。
この不安に恐れを感じるようになったのは。

同時に、花のつぼみの儚さで微笑む女性が脳裏に浮かぶ。

咲坂夫人――北見が旧姓で呼んでいた女性。瀬川菜緒、だ。

善意の塊であり、慈愛に満ちた妻であり母。北見の知る頃は、もっと違うところもあったのかもしれない。
北見は決して彼女の話をしない。テルにも、それ以外の誰にもそれを許さなかったし、あまりにも頑なに沈黙を守ろうとする彼の姿から、テルは、北見にとって彼女が最も神聖な存在であることを悟った。
冷やかしや詮索を嫌って、院内では夫人と個人的な接触を避けていた北見だったが、時折向ける眼差しがどこまでも柔らかかった。それを目の当たりにしては、テルは自分の足元から、じわじわと水に浸されるような感覚に身体を冷やしていった。

夫人と北見はそれきりだった。
北見の淡く若い想いはすでに昇華されていて、咲坂一家とは和やかに別れを終えた。
なのに、テルが感じた不安はいつまでも消えることはなく、足元は今も水で満たされている。
この水が何を意味しているのかは分からない。ただ、隙を見ては足元を這い上がってくる冷たさに、わけもなく怯えた。


北見には、長く怒りと絶望を植えつけられてきた。
理由のない暴力を振りかざしては力で自分を支配しようとする男に、テルは抵抗を続けた。我慢だけを強いてくる態度はあまりにも傲慢で、言いなりにならないテルは酷く痛めつけられた。精神的にも肉体的にも。

しかし今は、言葉を尽くす術を知らない北見を見誤ることはない。
彼の行う理不尽の裏には自分への望みがあり、それを満たすことで、北見をひとつずつ理解することができていく。まどろっこしいパズルを解くような関係を、テルは受け入れることにした。
それでもあの時の痛みは忘れられることはないし、理不尽に対する怒りは消え去ったわけではない。心の奥底ではまだずっと燻っていて、何かの拍子に燃え上がっては癇癪のように北見にぶつけられる。


もし、自分でなければ――?


足元の水が滲みこむのを止められないように、そう考えてしまう思考も止めることができない。

たとえば咲坂夫人ではなく、瀬川菜緒が――そんな未来もあったかも知れない。
微笑む彼女にも、北見は理解することを強いただろうか?

彼の隣で微笑むのならば、きっと北見はどんな女性にも真心で接したのだろう。




「おい。
 やけに静かだな、どうした?」

上方から降ってきた声に、自分が俯いていることに気づいたテルが頭を上げると、マグカップで両手が塞がっている北見が珍しそうな表情でこちらを見下ろしていた。

「………あ、いや、何でも」
「眠いなら、風呂に入ってもう寝ろ」
「そう言うんじゃ、ないです」
「……?」

差し出されたカップには六分目ほどしか注がれていないコーヒー。目一杯の砂糖を入れる余裕を見越した、テルのための薄めのアメリカン。許しても、甘やかすことはない北見の気遣いが今は痛い。

「ありがとう、ございます」

いつもならキッチンに駆け出して砂糖を大さじで投下するのだが、今、甘い物を飲んでしまったら泣いてしまいそうで、テルは受け取ったコーヒーを冷ましながら啜る。口から鼻に抜ける苦味に眉を顰めるが、そんなテルよりも不審そうな表情を浮かべている北見は首を傾げた。

「どうした?
 さてはキッチンに行くのが面倒になったか?」

それとも、糖分の取りすぎを自覚できるようになったか、と揶揄するように口角を上げる北見だったが、対するテルの反応は予想に反して随分としおらしかった。
伏せた瞳に暗い翳りを見つけて、覗き込むように彼の隣に腰を下ろす。

「何があった」

俯いたままのテルからカップを取り上げると、びくりと身体を震わせた。
以前の北見は、この反応に苛つかされた。怯えさせてしまう自分の態度は自覚していたが、テルが身体を強張らせる度に、感情を波立たせる怒りがさらに彼を傷つけた。

しかし今なら分かる。あの苛立ちの理由も意味も。
そして、この頃見かけなくなったはずのテルのこの態度に、北見は胸を刺す痛みを感じるようになってきた。

「……無理に、聞き出したいわけじゃない」

北見の溜息一つにびくつくテルを慮って、絞るような声で呟く。
それこそ大きな音を立てないようにテーブルの上にカップを置いた北見が、テルから距離を取るべきかを躊躇っていると、だるそうに頭を持ち上げたテルが何とも言いがたい表情を浮かべていた。

「大丈夫か?」

内心、何に対してだと、少しも気の利いた言葉をかけてやれない己に吐き捨てるが、テルは僅かに顎を下げて見せる。

「何かちょっと、考えちゃって……」
「……?」

「北見の隣に……女の人がいるところ、を」
「……なに?」

思いもしなかった言葉に、北見の眉間に皺が入った。

テルの思考は、北見にとっては基本的に理解不能だ。
突飛な発言や行動に振り回されて痛い目を見せられたことも少なくない。
相手に改めることを求め、また自分も理解する努力をしようとした。結局どちらも無駄に終わった今は、テルの思考に慣れること、そうするに至った原因をつきとめるための訓練を自らに課すことにしている。

覇気のない顔色で、また顔を俯かせるテルが唇を噛み締める。

「……昼間の話か?」

「スイマセン、立ち聞きしてました……」

別に聞かれて困る話でもないが、多少気まずい。

「それは良い。
 普段なら断るんだが、どうも――」

院長が断れないらしくて、と続けようとしてまた、一体何に対する言い訳が必要なのかと困惑する。

「お前が気にしているようなことはない」

――だが、それは何だ?

北見がテルに、テルが北見に抱いているものの正体は執着だ。そこまでは互いに理解している。
それでもテルは、もうはっきりと自分の感情を認識できている。何せ、平気で好きだと笑って告げてくるのだから。
しかし北見はテルほど単純に問題を昇華しきれない。それは今でも。

手放したくない、傍に置いておきたいと思うし、傍にあれば自分を拒絶するかのような態度は許せない。むしろ、できれば笑った顔を見ていたいとも願っている。
しかしそれが単純に、彼が事あるごとに告げてくる「好き」と言う感情に直結するとは到底思えなかった。

北見が一番恐れているのは、過去と向きあうことだ。
身体的にも精神的にも苦痛を与え、従属することをテルに強いてきた己の傲慢さを自らで認めてしまえば、テルへの償いは一つしかない。

彼の望むとおりに彼を解放することだ。だがそれも出来ない。
北見自身が手放したくないからだ。

北見はテルを子どもだ子どもだと哂っていたが、実際子どもなのはどちらなのかと口を噤む。

――そうだ。ただ我儘だった。

もう何かをテルに押し付けることをやめたはずなのに、結局のところ北見は、最も根深い部分で今も彼を苦しめている。

「…………」

北見の沈黙をどうとったのか、テルは自嘲を漏らす。

「北見の隣にいるのが女のひとだったら、
 北見は、もっと………」

その後は続かなかった。少なくとも北見には聞こえなかった。俯いてしまったテルの顔は見えないが、反射的に北見の脳裏に浮かんだのは、かつての初恋の女性。
瀬川と呼んだ、咲坂菜緒。

テルも彼女を思い浮かべたのだろうか。

再会を果たして、北見の思春期の淡い恋心は友情へと昇華された。
ただやはり、医師への道を開いたことで今の自分がある以上、菜緒は特別であることは変わらない。自分が初めて心を開いた相手が彼女であり、それは、かつて安らぎを与えてくれた倉橋の存在も同様だった。

「………なんでも、ないです」

北見の沈黙を、テルはよく取り違える。

テルが閉じた言葉の先は、恐らく北見にははっきりと答が出ている問題だ。しかし、実際はそれを問われると北見は戸惑ってしまうだろう。それはテルに対するこれまでの遠慮であり気遣いであり、北見が自分自身と向き合わなくてはならない瞬間だからだ。
立ち並ぶ壁を遠ざけて来て、その度に顔を背けられることに笑顔を返してきたテルが望むものはそれだけだと言うのに。

テルが諦めるのは、北見がそうして口を閉ざている間は自分の選択権が取り上げられていると錯覚しているからだ。実際は北見は彼への答を用意しようとしているのに、肝心なところでテルは北見の態度を取り違えていく。

「風呂入れて来ていい?」

そうして疲れた顔で無理やり笑って、一切をなかった事にしてしまう。
少し前までは、北見もその流れに乗っていた。自分に都合の悪いことを見ずに済む、と。

「……お前が、そうしたいなら」

だが今は、そうしてテルの望みに背を向けていたばかりか、この上傷を増やしている自分に腹が立つと同時に、冷えていく心に焦りを感じていた。







2. pay off


先に寝まーす、と明るく告げた後、冗談めかした敬礼で北見の返事も待たずに寝室に逃げ込んだ。まさに『逃げ』出したテルはベッドに潜り込んだ。夜気に冷えた毛布に身が竦むのを我慢して、背中を丸めて縮こまる。

――反吐が出る。

午後からずっと腹の中に抱えた蟠りは時間とともに肥大して、結局夜に爆発してしまった。
これまでも少なからず感じていた不安が、とうとうかたちになって北見に向いた瞬間、テルは酷い自己嫌悪に襲われた。
北見とテルには約束はない。それはテルが一番良く分かっているはずなのに、何を欲しがろうとしたのか考えるだけで反吐が出る。

テルから見ても、北見は人付き合いが上手いほうではない。
職業上最低限必要な愛想はあるが、彼は一人一人との信頼関係を大切に築いていくタイプだった。特に女性の扱いが苦手で、バレンタインやクリスマスに便乗して押し寄せる女性達の対応に手を焼いている北見は、外科一同の冷やかしの種になるほどなのだから。

しかしテルは全く正反対だった。誰とでも言葉を交わして、すぐに打ち解けてしまう。人好きする体質を北見に羨ましがられたこともあったし、他人の心の機微を彼よりも上手に悟ることができる。

だからこそ咲坂夫人と北見を見た時に、激しく動揺した。

北見が彼女に触れることを拒絶する限りはテルの下らない妄想だったとしても、北見が頑なに咲坂夫人を遠ざけようとすればするほど、彼の、彼女への好意は確信に近づいていく。


そう昔でもない過去に、酷いやり方で身も心も傷つけられてきた相手に抱くのは、彼への尊敬と畏怖、少しの同情と憐憫。そして、愛情。
頭がどうかしてしまったとしか思えなかったが、自分の中にある、がんじらめになった北見への執着を解いていくと、そこにあったのはただの好意。それに気づいてしまった瞬間から、一時ほどの憎しみは失せてしまった。

好きだと告げた時の北見は、まるで珍獣でも見ているようだった。
ただ、自信満々な態度に気後れするまいとしてか、普段と変わらぬ沈着さを崩さずに「分かった」と答えた。
あの時の、呆気に取られたような顔は、今思い出しても傑作だ。

彼の考えていることはテルには難しすぎて分からない。極端に人付き合いが下手だったから戸惑ったのかも知れないが、いつも勝手に振り回されていたテルが、あの時は初めて北見の心を読めたような気がしたのだ。

けれど自分だって分からない。何であんな暴力的で傲慢な男に惚れたかなんて。

それでも、テルには北見でなくてはならないとはっきりと答が出ていたし、北見がテルの方を見ている限りはそう伝え続けようと決めた。だがそれは、彼に従属するためではないし、傷つけられずにいるためではない。
傷つくことはもう恐れていない。彼の振るう横暴が、求められている可能性から確信に変わった時から、彼の隣にいることが正しいと信じたからだ。

北見が何を伝えようとしているのか、テルは一つずつ知りたかった。
不器用な北見は、簡単には打ち明けてはくれないだろうが、元々負けず嫌いな性分だ。北見との根気比べならば負けたくはないし、譲ってやる気はない。

そんな風に少しずつ彼を理解していくと、そんなに遠くない未来に、北見が全てを明け渡してくれるのではないかと期待する一方で、足元から這い上がってこようとする冷たい気配はいつまでも消えない。
時にぬかるみ、飲み込もうと波紋を広げてくるその水溜りは、いつも心のどこかに不安を生んでいる。

咲坂夫人のことを問えば、北見は何もないと答えるだろう。
確かに彼と彼女の関係は、大人の友情特有の潔さと素っ気無さを感じさせた。テルが勘繰る方がばかばかしいほどに、もう遠い過去の話なのかも知れない。

でも……と考えているうちに、やっと体温に馴染んできた毛布の暖かな空気に包まれて、誘われるように瞼が落ちる。

……でも、本当に考えてしまったんだ。

彼の隣に並ぶ、瀬川菜緒。華奢で儚い彼女を守るように寄り添う北見の、穏やかで満たされた微笑みを。




 ++++



ベッドルームには、夜中の緊急呼び出しでもそそっかしいテルが足を踏み外したり小指をぶつけたりしないように、常夜灯が灯されている。
ほのかな明かりが暗がりでも室内を照らしていて、テルが目覚めたのはまだこの明かりが灯る深夜だった。

「………?」

何かに呼ばれた気がしてしばし夢と現実を彷徨っていたが、ふとすぐ近くの気配に頭を巡らせたテルは、北見に頬を撫でられていることにまず驚いた。

「きた……み、先生?」

寝起きの掠れた声はまともに言葉にはならなかったが、北見にはどうでも良かったようだ。

触れる指先はすっかり体温に馴染んでしまっていて、テルが目覚める前から添えられていたのだろう。常夜灯が浮かび上がるベッドの上に見えるのは、すぐ隣で上体を起こして自分の頬を撫でている北見。
どんな顔をしているのかは、暗さの制でテルには見えない。だが、包むような優しさで撫でる指先が、逆にテルを不安にさせた。

テルが目覚めたからか、北見はほんの少し躊躇うような間を置いて、そっと手を退ける
冷えた空気に晒されたことに、なぜか置いていかれるような錯覚に襲われたテルは、北見を追って思わず身体を起こした。

「……あ、あのっ」

北見がどんな顔をしているのかが一番気がかりだったテルは、しかし顔を覗き込むことは叶わず、後頭部を掴まれて彼の肩に額を押し付けられた。突然のことに戸惑ってもがくが、後ろ頭を抑えている力は相当のもので、これは動くなと言う意味だとこれまでの経験から悟る。

「北見?」

抑え付けられていること自体は良いが、首が直角に曲がっているのは少々辛い。
しかし、身じろぎする度に巧みに力をかけてこられては、北見の望みどおり大人しくするしかない。。
北見の振る舞いは、こちらの反発と比例していることが多いことを思い出したテルが身体の力を抜くと、彼の読みどおり、北見はあっさりと手の力を緩めた。

「…………」

こんな風に、言葉よりも行動で制御しようとする時の北見は、どこか傷ついているように見えるのだ。
そして、何かに焦っているようでもある。

「……なあ、きた」
「お前には――」

囁くような声。

「…………」

「お前には、何も与えてこなかった」

抑揚のない響きは落ち着いていると言うよりも、むしろ感情の欠落を感じさせる。

「……どうすれば良いのか、分からない」

どちらが子どもなのかと思うのはこう言う時だ。

テルから見ても、北見は人付き合いに距離を置きすぎる。その距離に恐れをなした相手が離れて行っても、淡々と受け入れる北見は逞しいのか寂しさに気づいていないのかのどちらかだと思っていた。

けれどそれは違っていた。この男は単に執着するものが少ないだけで、逞しくもなければ、寂しさに慣れているわけでもない。だからこそ、数少ない大事な物を手元に置いて離そうとしなくなる。

倉橋への尊敬と、瀬川への感謝。それから、テル。

反発するほど執着が増していき、自由にならない苛立ちで振るわれる暴力の意味を考えて、ようやく北見の本心を垣間見た気がした。
だからテルは好きだと告げた。もう彼から逃げないことを伝えるために。そうして北見の態度が軟化し始めると、テルは臆することをやめて、色々なことを口に出していった。

ひとつ笑うたびに、固く縛られた紐がひとつ緩んでいく。そんな感覚が嬉しかった。

「お前が望むことを、俺はしなければいけない」

だから、この時の北見の言葉には、冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。
しんと静まり返った真夜中の空気は冷たく、上掛けもない二人の身体はどんどん冷えていくばかりだ。

「………い」
「?」

「そうじゃ、ない……」

テルの指が、北見の寝巻きの胸元を掴む。

――そうじゃない。
何度も何度も、胸中で繰り返す。

テルが本当に欲しいものは一つだけだ。

北見はそれを知っているはずなのに、罪悪感のせいで錯覚してしまっている。
謝罪や慰めが欲しければ、とっくに北見を殴って終わりにしていた。

「そんなのが……欲しいんじゃない」

償いのために好きでもない男に寄り添うほど、北見が殊勝ではないことは分かっていても、そんな言葉を口実にされるのはまっぴら御免だ。

服を掴む指先は白く、身体以上に冷たくなっていく。噛み締めた唇をほんの少しでも緩めれば、もう嗚咽にしかならない気がして、それ以上は何も言えなくなる。
縋りつく強さで握り締める拳だけが、テルができる北見への唯一の抗議だった。

震える肩を鎮める方法が分からないまま、今にも暴れだしそうになる荒ぶる感情を喉の奥で強く呑み込んでいるテルを、北見は抱きしめてやることもなく、ただ見下ろしているだけだった。
その冷たさに、食いしばった歯が震えることが悔しくてたまらない。
やはり優しくもない男だと、今更ながら後悔する。
なぜこんな男が良いと思ってしまうのだろう。それどころか、この男でなければ駄目だとさえ。

いよいよ激情に耐えられなくなったテルが、北見を突き飛ばしてしまいそうになる頃合をまるで見計らったように、北見は身じろいだ。肩に埋めたテルの耳元に口を寄せ、囁くように告げる。

「……もし……
 もしも、許されるなら」

後ろ頭を掴まれていた手が、そっと包み込むように肩を抱いた後、小刻みに震える背中は宥めるように撫でられた。

「もう少しだけ、待ってくれ」

「………………」

この期に及んでまだそんな事を口にする。

最初からこれまで、テルは根気よく我慢を続けていたのに、これ以上さらに何を我慢しろと言うのかと、もはや怒りよりも失意しか覚えない。
その反面、背中を撫でる、いつも痛みしか与えてこなかったはずの手が、今はとても優しい。

そうして、テルが気持ちを落ち着けるだけの間をかけた後に告げた北見の言葉は、それまで必死で堪えていたテルの感情を決壊させたのだった。


「約束する。
 ―――お前だけだ」


腕の中のテルは、相変わらず肩を震わせていた。

もう堪えることをやめた嗚咽に変わっただけだったが、少なくともテルの指はもう冷たくない。
柔らかなちからで包み込まれた身体とともに、指先に血が通いはじめることで生まれる温もりが、彼を慰めてくれるからだ。







まだどうすれば、ちゃんとした言葉で伝えられるのか北見には分からない。

けれど、これまで多くのことを許してくれたこと、今もこんな不器用な自分を受け入れてくれていること、そしてこれから先も望まれていること。揺ぎない信頼と親愛、感謝に満たされていること。
それを全て伝えたいこと。それだけは分かっている。

言葉で伝えたい。彼がくれたような幸福な言葉を、彼にも同じように与えたい。









 ++++




「何で断ったんスか?」
「………何だ、いきなり」

安田から指定されていた見合いの日に、北見の家のソファで長くなっていたテルはふと思い出したことを口走っただけなのだが、ひどく機嫌の悪そうな声とともに睨み返された。

「いや、だって今日、ほら……『お見合い』の日だったじゃん」

北見は都合の悪いことや、聞かれたくないことがあると威圧的になる。
それを分かっていながらも、あえて地雷を踏み抜こうとするテルも、やっぱり何を考えているか分からないと北見は呆れる。

「断った」
「え、でもっ、だって、院長は……?」

テルから見ても、あの時の安田の様子は断りきれない相手だったに違いないし、その手合いにはこれまでも北見は渋々折れていた。
面食らうテルに、北見は肩を竦めて嘆息を漏らす。

「理事長を通して断ってもらった」

これにもテルは驚いた。

何しろ、ひとに借りを作るのを極度に嫌う北見だ。特に理事長である皇はスタッフを甘やかす傾向が強い上、さすがに一代で巨財を成し、大企業にのし上がっただけの実力を持った変わり者だ。悪人ではないとは言え、北見では到底御せる相手ではない皇への警戒心はまだ根強い。

テルにしてみれば、皇は、財力を鼻にかけない気持ちいい男だが、北見にとっては得体の知れない相手と言う印象のままなのかも知れない。
とかく、彼に借りを作るのを嫌う。(ゆえに皇の持ちネタにされてしまうくらいだ)


「……だ……大丈夫なんすか?」

テルが心配そうに伺う視線を、北見は逸らした。

「大丈夫なように、理事長に頼んだんだ」
「えー、でも……北見、皇さんに……」

「……………」

「えーと……怖いんで、そんな目で睨まないでくださいよ」

沈黙で有耶無耶にしようとする北見に、テルはこうして抗議をしているのかも知れない。こちらがどうしても触れられたくない部分に関して、テルは酷くしつこくなる。
どうやら、しぶとく食いつけば折れる線を、いつの間にか見つけてしまったようだ。

「相手だって、誠実な男の方がいいだろう」

「??」

疑問符を浮かべる要領を得ないテルを見て少しは溜飲が下がったのか、北見は口元を歪めて笑うと、彼の額を指先で軽く弾いた。

「売約済みの男が見合いなんかできるか」

額を撫でて、まだ分からないと頭を捻るテルを尻目にキッチンに向かった北見が次にリビングを覗いた時に見たのは、耳まで真っ赤になってソファに丸く蹲ったテルの姿だった。











◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

「pay back(支払う)」
「pay off(報われる)」

思ってたのとちょっと違う話になっちゃったなーと言う。