■ Once ■




「天気いーなー」

梅雨の中休みとでも言うような、すっかり晴れ渡った空を眺めながらテルは独り言を零した。

陽の差し込む窓の前でごろりと横たわった身体を伸ばす。
気持ちの良い朝の始まりから昼になっても機嫌に変わりなく、怪しい雲の陰すら見えてこない。しかし天気予報では明日から再び傘のマークがずらりと並んでいた。

「明日からも雨って本当かなー?」

雨の出勤で服が濡れることを考えると憂鬱にはなるが、休日は快晴であるに越したことはない。天気の良い日に仕事をしているとなぜだか損をしているような気分になるからだ。

実は本当は今日は日勤のはずだったのだが、どうしてもと沖とに請われて休日を振り替えた。

今日は6月25日。世間的に有名な、天下航空機墜落事故が起こった日。

事故現場では合同慰霊祭が行われているはずだが、テルは一度も行ったことはない。
彼の叔母は何度か参加したらしいが、遺族であり、唯一の生存者の縁者に対する好奇に晒されることに耐えられなくなったと漏らしていた。テルもこの日は毎年勤務を入れているが、周囲からの気遣いに多少の疲れを感じることもある。

正直、思い入れと言う点では叔母の方が強いのではないだろうか。
何にしろ、事故の後遺症で幼少時の記憶の薄いテルにとって今日は確かに心痛む日だが、同時に周囲から注がれる多くの同情を持て余すことも多く、そう言う意味では休日になったのは良かったのかも知れない。


突然に決まった休日だったので何かしようと言う計画もなく、テルはいつも通り北見の家に呼ばれていた。どちらかに限らず、休前日は北見の家に赴くのは暗黙の了解と言うやつだ。

北見との関係も、まあ相変わらず。

美味い食事と快適な寝床を提供される代わりに、ちょっとの掃除のノルマと、『忍耐と努力』を強いられるだけ。最近になって、強いられる苦痛より与えられる喜びの方が大きくなっている気がするので、この言い方もいい加減変えたほうが良いのかもしれない。例えば、『愛される』とかに。

昨夜は、あり合せと言っておいてハンバーグを作ってくれた。うさぎのかたちがいい! と煩く強請ったテルはさすがに拳骨を落とされたが、テルが嫌がらせでハートのかたちに整えたハンバーグを、ものすごく嫌そうな顔をしながらも北見は黙って平らげた。

そう言った些細な変化が嬉しくて、テルの頬は昨日から緩みっ放しだった。
北見の行動ひとつひとつに、テルの存在がちゃんと絡まっている。いないものとして扱われて、常に否定されていた頃の苦しさを今は思い出すことさえ出来ない。

歩み寄ることをしてこない北見に、テルは自分から近付くことを覚えた。
距離の分からない相手のいますぐに隣に、とは行かなくとも、近付くことは許された。
あとは彼が隣に並ぶ日を、今日か明日かと楽しみにするだけだ。


昨日の苦虫を噛み潰したような北見の渋面を思い出しながら、込み上げてくる笑いを喉の奥で堪えていたテルの鼻先を香ばしい飯の香りが掠めた。途端に腹時計がぐうと鳴り、昼食だと知らせる。

「チャーハン!」

「本当にガキだなお前。
 ほら、テーブルを片付けろ」

勢いをつけて上半身を起こしたテルの背中に呆れた声を投げてくる北見は、両手で昼食一式を乗せたトレイを抱えている。テルは慌てて北見の言葉に従い、信じられない速さでテーブルの上のものたちをソファに移動させた。右から左に移しただけの『片付け』に、物言いたげな眼差しを寄越してくるが、結局何も言わずに北見は配膳を終える。

北見のチャーハンは中華料理店のものにもひけをとらない。
仕事に手を抜かない男は、料理にも手を抜かないからだ。調味料も道具も全てが揃えられている北見宅のキッチンは、下手をしたらそこら辺の料理教室よりも高機能なのかもしれない。

昼食は、チャーハンと野菜サラダと玉子スープ。
それらを前に、頂きますと拝むように北見に告げるテルがなぜか真剣な顔をするのが面白くて、彼の見ていない隙に口の端を思い切り歪めて笑う。自制心で律した声で「どうぞ」と返すと、テルは破顔して食事に取り掛かるのだ。
食事の度に繰り返されているやり取りだが、どうしたことか北見は見飽きる事もなく、毎度吹き出しそうになる笑いを堪えるのに必死になる。その分だけ食べ終わるのがテルより遅れてしまうため、普段は、自分の使った食器をテルに先に洗わせている。

けれど、今日は食事を終えて流し台で袖を捲くるテルを呼び止めた。

「………なんか用スか?」
「冷蔵庫を見ろ」

「……?」

首を傾げて、手にしていたスポンジを置いて冷蔵庫を開けるテル。

一人暮らしのくせにテルの背丈よりも大きい冷蔵庫は、几帳面な北見の性格を示すように整理整頓が行き届いている。無駄なものは買わない北見らしく、賞味期限もきっちりとメモしてある。恐ろしく管理された食材の中、妙に大きな白い箱が異彩を放っている。

北見が指示したものは考えるまでもなくこれだろう。だってどう見ても菓子屋の箱だもの。

テルが箱を両手で抱えて北見に見せると、彼はスープを口に含む寸前、面倒臭そうに「開けていいぞ」と言った。

医者と言う職業柄、患者の家族から差し入れを頂くことも少なくない。
病院の方針として、心づけは断固として断るよう決められているが、日持ちのしない菓子類は断ることが難しい。北見ですら折れて、医局の冷蔵庫に仕舞いこむことはままあることだった。

これもその類の差し入れだろうと、テルは滅多にない食後のデザートに心躍らせる。

わくわくと箱を開けば目に飛び込んできたのは、鮮やかなフルーツでいっぱいに装飾された絢爛豪華なショートケーキと、磨かれた鏡のような光沢を放つシックなザッハトルテ。
あまりの神々しさに言葉を失うテルだったが、はたと気付いて箱を確認する。

「きたっ……、北見先生!」
「何でいつも静かにできないんだ」

いつの間にかキッチンにいた北見は、心底うんざりした様子で食器を片付け始めていた。

「これ、すっごい高いお店のやつ!
 一個600円くらいからで、このチョコの方は780円だし、
 こっちのケーキは860円もするんだけど!」

大声で喚き立てるテルの異常なテンションに引きながら、詳しいなと余計なところで感心してしまう。
普段は不注意が服を着て歩いていると思うほど散漫なのに、こう言うことに無駄な集中力を使い果たしているように思えて、北見は少し情けなくなった。

「そうか良かったな」
「そうじゃなくて、これって貰い物じゃないだろ」

ほんの一拍、食器を洗う北見の手が止まった。

「それがどうした」
「………いや、その……
 もしかして……北見が買ってくれた、とか? って」

何かの期待が入り混じった眼差しが上目がちに北見に注がれるが、彼はそれらを振り払うようにコックを捻る。

テルも、北見との付き合いは短くない。
以前ならば、北見のこの態度を怒りに触れたと恐れていただろうが、問いに対する答えを有耶無耶のうちに誤魔化そうとしている心境を計るまでに至った。
曖昧を許さない北見らしくない、いや、不承不承も認めようとする態度は北見らしいのか、とにかく、これを肯定と受け取ったテルはまたも頬を緩めざるを得なかった。

珍しく、がちゃがちゃと騒々しい音を立てて食器を扱う北見の横顔は、見ない振りをしてやることにする。

「北見先生はどっち食べるんですか?」

愉快な気持ちのまま、答の分かりきっている問いを投げかけると、それこそ呪い殺されそうな形相で睨みつけられた上、重低音で「誰が食うか」と吐き捨てられてしまった。

「じゃあ、両方いただきまーす」

上機嫌でごちそうさまですと北見に挨拶しておいて、食器棚から皿とフォークを取り出して素早く退散する。その後ろで、こぼしたら取り上げるぞと言う脅しが聞こえた気がしたが、こんなご馳走にそんなもったいないことができるものか。

テルは、どちらにしようかな、などと指差し遊びをして顔を綻ばせる。

今日は本当に、一体どうしてしまったんだろう北見はと疑問に思いながらも、滅多に口にできない高級生菓子への期待に深くは考えずに、ほどなく先に食べることに決定したフルーツケーキを恐る恐る取り出した。
もしかしたら二度とお目にかかることないかも知れないのだ。
美しい造詣をきちんとこの目に焼き付けておくために、皿を回して眺め見る。折り重なったスポンジと、層を成す色とりどりのクリーム、そして、押し潰さんばかりに盛られた数々の果物が整然と華を添える。

まるで神が創った奇跡のような姿に、恵みに感謝をするまた別の意味でケーキを拝んだところで儀礼は果たしたので、早速フォークを差し入れた。あれだけの果物を乗せているのに、信じられないほど柔らかいスポンジの感触が職人の技を思わせる。スペシャリストに乾杯。
口の中に広がる素晴らしい味と香りに、感動の涙さえ浮かびそうになった。舌の上でほどけるように溶けるクリームを味わうと溜息が自然に漏れる。
高級菓子とは信じられない幸福をもたらしてくれるものだ。

テルは勢いのままにがっつきたい衝動を何とか堪えて、つとめてゆっくりとフォークを動かす。

もう今の彼には、北見のことは頭にない。
ただ、眼前のケーキ様の与えてくれる幸福と感動を、どう感謝したら良いのかと言う問題に悩むだけだ。
再び、幸せと言う真綿にダイブしかけたテルだったが、テーブルに置かれたマグカップに現実に引き戻された。

ああそうだ、北見がいたんだっけ。

「何だ、随分大人しいな」

笑って揶揄される。

「大事に食べてるんですよーだ」

北見はソファーに座って(多分ケーキの匂いに閉口して濃い目に入れた)コーヒーを啜りながら雑誌を開いている。と言うことは、テーブルのカップはテルのために用意されたものだ。

またしても珍しいこともあるもんだと、テルは口を尖らせてカップを手にする。

「………」

漂う香りが、またテルを驚かせた。

北見の嫌う、甘い甘い香り。

「……ココアだ」

家の主は、テルの行動を制限している。
いわく、散らかすな。壊すな。騒ぐな。

そして、甘い物は置くな。

基本的に北見の家には、テルが好みそうな嗜好品は、彼自身が持ち込まない限り置かれることはない。北見が極端に甘味を嫌ったうえ、その香りにすら文句をつけたからだ。

だから、テルはこの家にあるコーヒーを飲むしかなく、それには北見が目を三角にして怒るくらいの量の砂糖を入れざるを得なかった。ココアの材料など、絶対に許してもらえないはずなのに。

「………えーと……」

本当にどうしちゃったんだ。

両手で抱えたマグカップから、ほのかに漂ってくる香りにほんの少しだけ気分を害した様子で、北見がさっさと飲めと促してくる。自分で作ったくせに、自分で作っておいてこの言い草はなんだろうかとも思ったが、なぜか最大限の譲歩をしてくれる北見の考えがさっぱり読めない。

しかしさすがに口に出して問えば、確実に機嫌が斜めに急降下するだろうことを踏んで、テルは黙った。
首を捻って、マグカップの口にふうふうと息を吹きかけて冷ます。
その間も、いつにない寛容を見せる北見の奇行をひとつひとつ挙げては理由を考える。

テルは思い当たらない原因が気になって、何だか急に気まずい気持ちになった。北見は何を言うでもなくこちらを気にするでもなく、普通にリラックスしているようだったが、テルにとってはそれもまた不安の要素になる。

自分が何かをしたのか、何かがあったのか、それとも何かをされているのか。

考えても考えても、北見に関わる事柄では自分は失敗はしていないように思う。

では、何かがあったのか? 何が?


昨日? 一昨日? それとも、今日?


「……………」


日付を遡って数えていくうちに、テルはやっと気付いた。


そうだ今日は。


「北見先生……」

「なんだ?」

北見に面と向かって過去を話した覚えはないが、彼はどこかから聞いたのだと思う。
去年もその前も、この日に仕事に熱心に打ち込むテルに、物言いたげな顔で接してきていたことに疑問を感じていただけで、結局飲み込まれた言葉を促せるほど器用ではなかった。

だから今年になるまで気付かなかった。
北見が甘やかしてやろうと思うほど、この日を気にかけてくれていたことに。

「……あの。
 えと、ありがとうございました」

「そうか」

雑誌から顔を上げた北見を直視できないテルの態度と感謝をどうとったのか、彼は僅かに表情を緩めた後、気取られないように短い答だけを残してすぐに手元に視線を落としてしまう。

ココアを一口含めば、まさにテルにぴったりあわせた気持ちよい甘さが鼻腔に達する。
北見が匂いだけで眉を顰めるほどの砂糖以上に、彼からの精一杯の労わりがじわりと心を満たしていく。

なんてもったいない、今日はもう昼も過ぎてしまってやっと気付くなんて。

温かいものと甘いものは、心も身体も幸せにしてくれる。
ココアもそうだし、ケーキもそうだ。

そして今のテルには何よりも、北見と言う存在が、幸福そのものになった。

「ココアもケーキもおいしいです」

独り言のように呟くと、北見はなぜか瞳を細めてテルを見返した。
首を傾げる彼に、安堵したような溜息とともに、

「良かったな」

と、見たこともないような微笑みを返してくれた。
この瞬間、テルにとって今日はもう、振り返るだけの日ではなくなったのかも知れない。

多分これからきっとずっと、こうして北見が甘やかしてくれる日にもなっていくのだろうと言う希望と期待と、確信を抱かずにはいられなかった。











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らかん だと思ってたら りかん だった時の衝撃ったらないわ。

秋田出張の飛行機で体調崩したテルに無関心な北見先生には惚れ直した。