■ 星と月と夜 ■
深い呼吸が聞こえてくる。
眠ろうと強く目を閉じても余計に思考が冴えてきて、時間の感覚も曖昧で、そうしてからどれくらいの時間が経っているのかも判らなかった。
観念して瞳を開ける。
まだ宵闇の中。最近よく見る天井のかたちに、ひっそりと溜息を吐いた。
身じろぎを控えてそろそろと瞳だけを巡らせると、深い呼吸で眠る男の背中が見える。
同じベッドの中、一枚の毛布の中、寝返り一つでさえ起こしてしまいかねないほど、すぐ真隣にいるのに、その距離は果てしなく遠く感じた。
唇が動いて、名前を呼びそうになる。
手を伸ばして、触れそうになる。
そのどれも、結局できなくて、テルはもう一度目を閉じた。
一緒に居ることが、これだけ不可解な人間もいないと思った。
所謂「大人の付き合い」とは全く無縁な立場に居て、友人ないし知人はみなテルに、常に判り易い反応を返してくれていたから、これほどに、距離感のある存在とはどう接して良いのかも判らなかった。
問いに対する答は忘れた頃にやって来て、問われてすぐに返せば戸惑ったように沈黙する。
相手が何を望んでいるのかすら計れない。
そもそもこの北見と言う男にとって、自分の存在はどこにあるのか。
それすら確かめる術もない。
気がついたように触れてきて、すぐに忘れられて、その間の漣のような感情とは裏腹に、そう振舞うのが窮屈でならなかった。少なくとも、公私を使い分ける男に対して、プライベートですら従わなければならない謂れもないと言うのに、北見はそうしたがった。
自分を思い通りに、コントロールして置きたいのだ、と、テルは思っていた。その結果がどこに繋がるのかは考えずにいても、我慢ならないほどではない。
ただ、不可解で仕方ないだけだった。
どうして、と問いかけてもやはり答はない。
その内に――ひょっとすると、何かに紛れて北見はくれたのかも知れないその答を、待ち続ける意味の重大さは、今以て知り得ない。
そうして強引なやり方で誘われて、拒む方法も知らずに求められる。
テルに執着する割に、北見は行為以外で触れて来る事はなかった。
時折、気まぐれに唇でからかって来たりする時もあるが、それも意味を持っているとは到底思えず、それに戸惑う自分をただ揶揄しているだけなのだと、テルは思っている。
結局、北見の部屋に誘われて抱かれても、ろくに会話もなく後は眠るだけ。一つのベッドを使っても、北見がテルにそれ以上の興味を示すことはなかった。
それが、北見の答だと、最近思うようになった。
眠れない時に、眠ろうとする努力がどれほど無駄か。
悟ったテルは、二度瞳を開いた。
静かな深い呼吸は、決して温もりは伝えてこない。拒絶するように向けられた北見の後ろ姿をもう一度しっかりと見て、テルはベッドからそろそろと這い出る。それは彼にして、神経をすり減らすほどの努力を払って成就したらしかった。
ひとしきりの緊張の後、変わらない北見の寝息を確認したテルは、安堵もそこそこに、寝室から退散する。
荷物はいつもリビングの決まった位置においてあって、寝室に持ち込むのは何もない。
今纏っている借り物のシャツのボタンを外しながら、やはりここでも細心の注意を払って、極力足音を殺して行動する。
普段の落ち着きのなさも、こと北見のマンションになると、それこそ借りてきた猫の子になる。
そう笑ったのは他ならぬ彼だったが、テルはそれを聞こえない振りをしていた。
それは、必要以上に馴れるのを最も恐れたからだった。
まるでガラス細工のように触れただけで取り返しのつかないことになるようで、テルは北見の家のほとんどのものを自由にすることはなかった。
そして了解を求めることもない。
ただちょこんと、呼ばれるまで待ち、何か要求があればそれに応える。
だからどう贔屓目に見ても、北見に期待を抱くことは出来なかった。
デイバックを抱いて、玄関に静かに下ろしておいて、テルは風呂場に向かう。
灯をつけるのも憚れるほどの静寂の中、奇跡的に脱衣篭に放り出されっ放しになっていた自分の服を見つけた。翌日が休みだからと、洗濯機に放り込まれるのは免れていたらしい。
この際、汚れているのは目を瞑り、手早く着替えた借り物のシャツを畳んで脱衣篭に置いたテルは、放り出されていたネクタイを胸ポケットに押し込みつつ、電気を消して洗面所から出る。
どうしても今、家に帰りたかった。
形容が間に合わないほどに散らかって、四宮が卒倒しそうなほどに汚い部屋でも、あそこは自分だけの空間で、自分の帰る場所なのだから。
スニーカーを履いて、最後に鍵をどうしようかと考える。
当然合鍵など持っていないし、持ちたいとも思わなかった。
うっかり休みの日に「家で待っていろ」なんて言われた所で、自分は言いつけを守らずに北見の逆鱗を買うのだ。きっと。
一人暮らしとは言え、相手はあの北見なのだし、大丈夫かな、と。
少しだけ意地悪に笑いながら、そろりとノブを回したところで。
「どこに行く」
今だ低音を保ったままの声が、背後から輝を捕らえた。
跳ね上がった心臓を左手で抑えるが、右手はノブからは離さない。
そろりと頭を巡らせて、暗闇に立つ男を――北見、をテルは確かめた。
暗がりで見えないがあの眉間には、彼の不快指数を表す縦皺がきっちりと刻まれているに違いないだろうと、テルは恐々と考える。
そんな戸惑いの間の沈黙に、あるいはテルに関してだけ気が短くなるのか、北見は嘆息を漏らした。その僅かな動作で答を急かされているのを知っているから、テルは緊張に声を強張らせる。
「……家に、帰んまス」
暗闇の北見が僅かに身じろぎする。それでも近寄ってくることはない。不機嫌そうに歪められた眼差しで、こちらを睨みつけているだけなのだろう。
ややあって、最初の声よりは幾分慎重な声で北見は問いかけてきた。
「こんな時間にか?」
「だってもう用事は終わったんでしょ」
すると。思いがけず北見が沈黙したので、テルはその機を逃さずに言葉を被せる。
「帰りますから。ども、ご飯ご馳走サマした」
小さく会釈をして、もう一言も言わせないように、促すような態度を取らせまいと、テルは早々に部屋を出た。追ってくる気配もなく、それに失望も絶望も、何もない。むしろ有り難く、深夜のマンションに音を響かせないように足を早める。
馴れろ、と言われる度に、その窮屈さに呼吸まで詰まる気がした。
あそこはどうしても自分の居場所ではないし、どうあってもそうはならないと思ったからだ。
あの場所に、自分は存在する筈はないのに。
だから北見の部屋で、座り込む以外のことはしなかった。
時計を見ると、時刻は二時を過ぎた頃。
もうしばらくすると、朝刊配達が回り始めるだろう。心許ない街灯の点る夜の道を、ゆっくりとした足取りで家路に向かうテルの身体は、やっと思い出したように、鈍く、重かった。
途中で公園でも見つけて、休み休み帰らなければならないだろう。
はあ、と溜息が重苦しく吐き出されるのが不愉快でならない。
テルは坂道を下りながら、もうすぐ歩いた先の公園で一休みしようと、俯き気味に考えていた。
深夜は、大抵の物音は聞き逃さない。
遠くの背後から、エンジン音が聞こえてきているのに気付いたテルは、のろのろと道の隅に避けようと背後の車を確かめるため、頭を動かす。
そして。
立ち止まったことを、後悔した。
どうすれば、音もさせずに停車できるのか。
他の場所で見かけた事もないのに、ここまで見覚えのある外車も珍しい。
ぴたりと、先を阻むように横付けされた高級車から降りたのは、予想に違わぬ北見だった。
この男は、何事においても手を抜かない。流石に簡単にではあったが、寝巻きからちゃんと着替えていて、ジーパンと薄いシャツの上に、皮のジャケットを羽織っていた。
何でこいつがこんなところにいるのか。
愕然と。ばかみたいにぽかんと口を開けている自分を一瞥して、北見は強引に腕を引いた。
「ちょっ……!」
目を剥いて驚く悲鳴が響く前に、テルは早々に車内に押し込められてしまっていた。慌てて車から降りようと、ドアに手をかけようとした瞬間、牽制のためかバタンと大きな音をさせて運転席のドアが閉まる。
尋常ならざる物音の大きさに北見の不機嫌度合いを知ったテルは、思わず唾を飲み込んで大人しくするしかなかった。
結局こうして何も言わないまま、北見はいつも何もかも決めてしまう。
テルの都合に関わらないのは最初からだが、一番に勘弁ならないのは、北見自身の考えを何も言わずに通そうとする所に他ならない。そうしておいて、テルが少しでも北見の気に障ることをしたならば、その報復に容赦はない。赦免の猶予も気配もなく、代償は支払わされる。
これで一体何をしろと言うのか、何を理解しろと言うのか。
口数の少ないこの男から、答えが返されたことはきっと一度もない。
待ち続けることの意味も最早知りえないし、理解する必要もないように思える。
所詮、今さらの話なのだ、と。
停車した先は、北見のマンションだった。
そうなるだろうと思いながらも、アパートまで送っていってくれるのではないかと言う期待も無駄だった。
テルは促されるまで車内に止まり、腕を引かれて車を降りた。
車を降りても動こうとせず、余計に北見の怒りを煽りながら、突き飛ばされるように背中を押されて初めて歩き出すが、それも、逃げないように腕を捕らえられて強引な力で引っ張られながらだった。
その足の速さで、北見の怒りの深さを知る。
結局、分かるようになったのはそんなものだけで、それと知りながら逆撫でする態度しか取らないのは、最後の抵抗だった。
玄関に来ても一向に思い通りに動かないテルを、北見は苛立ちを隠さない態度で中に押し込める。
軽く羽織っていただけの皮のジャケットをソファに投げ捨てる北見を、テルは黙って見ていた。
照明はサイドランプだけで、広々とした室内に大部分の影を作っている。
その中で、北見は聞こえるほどの盛大な溜息を吐き出すと、まだ玄関口で立ち止まったままのテルに向き直って大股で近付いてくる。そのまま、背中を押すようにしてテルを歩かせ、ダイニングに連れて行き、ソファに引き摺り倒した。
扱いの悪さに覚悟をして、テルはきつく目を閉じると、覆い被さってくる気配に唇を噛み締めた。
暗い視界の中、ぐっと右肩が抑え付けられるが、抵抗はしない。
閉じた瞳を逸らすように顔を背けるテルにはお構いなしに、北見は乱暴な手つきでベルトを抜くと、下着ごと一気にスラックスを脱がせる。
そのまま行為に雪崩れ込むかと思いきや、それはそのままに、今度はシャツに手をかけてきた。
いつもなら裾口から手を突っ込んでくるのにと思う頃に、北見はテルのシャツのボタンを全て外し終える。
テルは今度こそ覚悟を決めて、ぐっとソファに身体を沈み込ませた。
が。
予想とは裏腹に。
いつまで待っても暴力のような愛撫は訪れなかった。
「………?」
不審に思って、テルはそろそろと瞳を開けてみることにする。
すると。
北見はすでにテルから離れていて、脱がせたシャツのポケットからネクタイを抜き出している最中だった。
対して素っ裸に剥かれたテルは、流石に恥ずかしくなって慌てて上体を起こし、両足を抱えて体操座りよろしく身体を小さく丸める。こちらの視線に気付いた北見は撫でるように視線を交わすと、部屋を出るまで輝が羽織っていた自分のシャツを投げて寄越してきた。
思わず反射的に呟く。
「……なに?」
「着てろ」
素っ気無く告げられた一言に驚きながらシャツに袖を通していると、洗面所に消えた北見が突然、洗濯機を回し始めた。
「あ!」
短い悲鳴を上げるも、すぐに洗面所から着替えを済ませて出てきた不機嫌そうな北見に阻まれて、そのまま寝室に連れて行かれる。
「本当に。面倒だなお前は……」
独り言のように呟く声にむっと振り向けば、すぐ間近にある北見の表情がいつもと違う事に気付いた。
多分ずっとこんな顔をしていたのだろうが、テルは気付かなかった。
背中を押されて促されて仕方なくベッドに入り、毛布に潜ると、背後の北見が腰に腕を回してきた。驚いて振り返るテルには構わず、北見はすでに瞳を閉じてしまっている。
「………………」
ああそうか。
胸中で、テルは独りごちた。
さっき見たあの顔を思い出しながら。
怒ってたんじゃなくて、眠かったんだな、
……と。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
まあそう言うこと。
今よりテルがちょっと遠慮してる時期辺り。