■ 転 寝 ■




「北見せんせー、風呂掃除終わりましたー」


まだ濡れた手をシャツの裾でこっそり拭きながら(水を振り払うと酷い目に遭う)テルがリビングに現れたのは、昼食も済んだ午後二時だった。
珍しく重なった全休日。もはや当たり前のように北見の家に寄生しているテルは、三食プラスデザートと引き換えに北見宅の風呂とトイレ掃除を担当している。この二箇所以外の場所は、被害を恐れた北見が許さなかったからだが、まあ、例によって風呂掃除をした後のテルの惨状の方が時に厄介になるが。

「北見ー?」

いつもなら面倒臭そうな顔でソファから立ち上がって、自分の仕事を欠かさずチェックするのに、と、テルは首を傾げた。

少し肌寒い季節の午後の陽だまりは、目に見えるほど暖かい空気がふわふわとそこら中を舞い踊っている。その陽気に誘われたのか。
北見と言えど血の通った人間なのだから、昼下がりのソファで、読みかけの本を開いたままうたた寝をしていてもおかしくないはずだ。

「うわー、珍しいー」

思わず目を見開いてうなり声を上げてしまったテルは、慌てて自分の口を手で覆う。誰にも見咎められないのにきょろきょろと辺りを見回してしまうのは、北見の目を覚ましてしまう恐れよりも、染み付いてしまった習性のようだった。

「……本気で寝てんのかよ」

テルに対しては、知らない振りをしていることの方が面倒になることを熟知している北見が狸寝入りをしていることは絶対にないし、テルの平素からの騒々しさを差し引いても、ついぞ隙のない男は、医者よりも兵士のように気配に敏感だ。
だからやはりこの状況は、非常に非常に、貴重と言える。

そろりと可能な限り足音を忍ばせて彼に近づく。仮にも医者であるテルにも、規則正しく揺れる北見の胸元の動きで、彼が今どれだけリラックスしているか分かろうと言うものだ。

口元が緩む感覚がくすぐったい。
歯を噛み締めていなければ、今にも変な声を上げて笑い出してしまいそうだ。


ああ、やばいこれ嬉しい。
胸の中で何度も何度も繰り返して、とうとう両手で顔を覆ってしまう。そうしなければ今にも北見に抱きついてしまいそうだったからだが、そこで初めて火照った自分の頬に気づくのだ。


「北見、先生」
自分でも信じられないくらい震えた声で呟いたが、やはり北見はすっかり熟睡していて、呼びかけに応えてくれる気配はない。

差し込む陽光が、柔らかく北見の顔を照らす。
あの美しい顔が無防備に晒されていることが、どこか後ろめたい。

それは誰かへの呵責ではなく、心の奥底に見え隠れする独占欲に対する痛みに近い。時に感じる自分の酷い我侭が、北見を汚しているようでそれも辛い。

今こうして彼のテリトリーに踏み込み、他の誰にも見せたことのないような姿を見ている自分はどんな立場にいるのか、まだはっきりと見えていない。
ただ、北見がいらないと言えば、彼の居場所は引き払われるのだと、テルは認識している。


それがいつになるか分からないけれども、せめてその日が明日でないようにと、彼は願っている。








「…………」

日の翳りが強くなった頃、空気が静かに温度を失い、肌寒さで北見は目覚めた。
太陽は傾いていて、もう半刻もすれば西の彼方に沈むことだろう。
周囲の暗さで読みにくくなった時計の針に舌打ちを漏らして、辺りを見回す。

「?」

ごそりと、重いものが近くに落ちた気がして見れば、隣にテルの身体が転がっている。
寄りかかっていた北見の動きにバランスを崩して傾いだらしいが、本人は全く目を覚まさない様子で、完全に熟睡していた。

昼寝特有の気怠さを、身体を伸ばして解消しながらテルの寝顔を覗き込む。一体いつの間に寝入ってしまったのかも覚えていないが、言いつけた掃除をテルが終わらせる前なのは確かだ。
そうなると、北見は寝顔を晒した挙句に、このうるさい部下の接近にも目覚めなかったと言うことだ。

「最近、忙しかったからな」

自分自身を納得させるように呟いて、膝の上に広げたままですっかり癖がついてしまった本を閉じる。
手を伸ばして、こちらに頭を向けて寝こけるテルの髪の隙間に指を差し込んでみるが反応はない。

「お互い、らしいな」

自嘲気味に笑い、北見は躊躇った指先でテルの額を撫でた。

嫌がる素振りも見せず、相変わらず無邪気に眠り続けるテルの寝顔にどこか安心してしまうのは、近い過去への罪悪感からだろうか。

どうしても自分で認めたくない感情を、相手に無理やり押し付けた。嫌だと、泣いて喚いても許さなかったことがあった。
粉々になるまで砕け散って、それでも、それを全部拾って、もう一度積み上げろと突きつけた。あの記憶はそんなに昔のことではない。

泣いて、喚いて、激しく噛み付いて、掴む手を振り払おうとすることを決して許さなかった北見を恐れて、テルは触れようとする度に身体を硬くして北見を苛つかせた。
その怯えが腹立たしかった理由も今は知っている。


あれはもう、過去のことだ。
けれど、決して忘れられない記憶でもある。


テルの頬を手のひらで包むと、身じろぎとともに小さな息が漏れた。温かみに擦り寄るように北見の手のひらに頬を寄せる動きがあまりにも自然だったので、北見の胸に静かな痛みが生まれる。

無邪気な笑顔を向けられる度に感じる罪悪感が消えないように、痛みも決して慣れることはない。


強いられてきたテルが、一体どれだけの痛みに耐えてきたのか測り知ることの出来ない北見は、今の関係は全てテルの寛容で成り立っていることを、こんな時に思い知るのだった。











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前半までは良かったのに、後半いきなり暗くなった……失敗。
わたしの中で北テルは、マイナスから始まってる。