■ ネクタイ ■
人生において、変化は稀なことではない。
「だって、息が詰まるんスよ」
環境に変化を求めるのは当然の権利だ。それが死活問題であれば、なおの事。
「下向けなくなるのって困りますよね」
確かに、それは大変だ ―――
「……なんて、言うと思ってんのか」
「口出す前に手出すのヒキョーっすよ!」
「口で言っても分からんから手が出るんだろうが!」
「暴力反対!」
周囲はあーあ、とため息を吐く。
テルのネクタイ嫌いは今に始まったことではない。
よほどの舞台でも用意しなければ、いつもこの男のネクタイは緩んだままだ。
最初こそ口うるさく、それこそ顔をあわせる度に指摘していたのだが、この部下はあくまでも聞き流すのみで実行した試しがない。稀に警告を受けて改善をしたとしても、長続きしない。
そう言えば、袖まくりにしても同じだけ注意しているはずだが、なぜか一向に聞き入れない。
常に反抗的な態度を取る部下に対して、北見は多く鉄拳制裁を食らわせてきた。もはや日常と言われるほどに。それでも、何かにつけてこの部下は指示を素直に聞こうとしない。
たとえ毎日頭を殴られても、殴る自分が慣れてしまったように、相手も慣れてしまったのだろうか。
(想像するだに恐ろしいことだが)
大抵、痛い目を見た後は一頻り喚いたところを北見に一喝されて、ぶすくれたまま恨みがましい目で彼を睨むのが習慣になっている。
この時も、小さな子どものように唇を尖らせて殴られた場所を擦っていたのだが、朝の回診を知らせる放送が入ると、テルはすぐに表情を引き締めた。
「テル先生、お先に」
「ウッス」
続々と退室していく医局の面々を見送りながら、テルも回診の支度を始める。
北見は回診には加わらない。他に抱えた仕事のために医局に居残りになる。
「回診始まるぞ」
「分かってますよ!
北見先生が余計なこと言い出さなきゃ、もうとっくに出てましたよーだ!」
口を尖らせて抗議した後は、ご丁寧に(しかも今どき)あっかんべー。実に恐れを知らない子どもだ。
……いや、問題は恐怖ではなく、学習をしないことだ。
北見の苦悩は、多くこの不出来な後輩が原因で、前述の通り北見はそれを何度となく解消する努力をした。恐らく自分のための時間すら割いて、ほとんどの熱意や活力をこの子どもに注いでやった。
――それなのに、これだ。
出したまま仕舞うことを忘れているのか(だとしたらそれも大問題になる)舌を見せたまま、机の上を掻き回している。間抜けだ。実に、間抜け面だ。
「………」
北見は黙って溜息だけを吐く。刻まれた眉間の皺の深さが、彼の苦悩を物語っている。
勿論テルは気付かない。テルにとっては、その一瞬一瞬を生きることが大事だからだ。北見の苦労を理解することなど、自分のことも一人前にできないテルには生涯望めないのかも知れない。
北見は静かに席を立った。
まだ、バカな犬みたいに舌を出しっぱなしにしている、犬以下の学習能力のないテルの顎を鷲づかみにして上に向ける。テルは驚いて目を見開くが、賢明なことに身動ぎひとつしない。
単に北見の暴力を恐れてのことかもしれないが。
とりあえず、舌を直させるために噛み付いてみる。
「―――!!!!!」
案の定、テルは反射的に頭を引こうとした。しかし、後頭部はすでにがっちりとホールドされ、後退を許さない位置に絡められた足によって逃げ場を封じられてしまっていれば、喉の奥で抗議を唸るしか手段はない(舌も人質に取られたので)。
掴まえた舌を丁寧に甘噛みしながら、うーうー唸ってうるさいテルの喉仏を強く押した。
途端、息を詰めたような音で喉を鳴らして、北見を突き飛ばした。しゃがみ込んで激しく咳き込むテルを見下ろしながら、涼しい顔で北見はぼやく。
「おい、うるさいぞ」
「っだ――ぇ・ほっ !!!」
「誰か来たらどうするんだ」
つまらなさそうに見下ろす北見を、ぜえぜえと肩で息をしながら睨みつけるテル。
「あ……あんたがやったんだろが」
「お前がうるさいからだ」
「うわーうわー! 言った、言いましたよ!
大体あんたが―――!」
張り上げた怒声は、残念ながら途切れた。
首に絡んだ北見の親指が、喉仏の上に置かれてしまったから。
直前の衝撃を思い出して、テルはほとんど反射的に声を止めた。
自分で仕向けておいて何だが、ほとんど犬の躾だと内心ほくそ笑みながら、黙ってしまったところに再びキス。
「んっ――!」
一瞬間に起こったことを頭が処理できずに固まるテルの舌を、ここぞとばかりに好き放題になぶり倒す。朝っぱらからのねっとりとしたディープキスは、テルの思考を飛ばすには充分だった。
だが、今は神聖な職場で、就業時間だ。思考は固めても理性はしっかりと残す程度に留めて、北見は唇を解放した。つぅと、口元を汚す唾液を舌で舐め取り、テルの愉悦に融けかけた瞳を横切って耳たぶを甘噛みすると、刺激に驚いた身体がびくりと跳ねる。いつでも喉を抑えられるように顎を掴んだ指先に力を込めるが、今のテルには数分前の躾も意味を成さない。
口付けを落とすように、耳たぶから耳元、頬を掠めて首筋に滑り降りると、濡れた唇の感触にいちいちびくつくテルの反応に艶めいたものが見え始める。
「……っ」
テルは意識的に歯を食いしばって、隙あらば快感に摩り代わろうとする刺激をやり過ごそうとする。
そんな彼の努力をよそに、開襟すれすれに見える鎖骨を舌でなぞり上げた北見は、時間をかけてキス跡を施した。
「んっ……!」
「よし」
余韻に身悶えするテルとは裏腹に、北見はあっさりと彼から離れると実に素っ気無くテルの肩を突いた。
「…………へ?」
「回診始まってるぞ。走らずに急げ」
「……あのー……」
まるでつい一瞬前の濃厚な愛撫が白昼夢のように、北見は素知らぬ顔で命令してくる。展開についていけないと言うよりは、北見の変わり身の速さに呆気にとられる。
「だらしない顔してないで、さっさと行け」
誰が、だらしない顔にさせたんだ! 叫びたくなるのを堪えてテルは北見を睨み付けるものの、確かに、何事も仕事が優先だと頭を切り替える。
病室に向かう前に、顔を洗って行かなければ、と急ぐテルの背中を北見の声が追いかけた。その声はなぜかのんびりと、けれど無視できない程度の声量だった。
「締めないと丸見えだぞ」
「?」
振り返ると、薄っすらと笑みを浮かべた面白そうなものでも見るような表情の北見が、自分の首元を指で示している。はて、と頭を捻るテルも、思わず北見と同じ動きを辿る。
そして――
「しっ………! しんっっっじらんねぇえええええーっ!」
「うるさい、さっさと行け」
「性格悪い性格悪いっ、北見、性格相当捻じ曲がってる!」
「それ以上続けるなら、次は手首だ」
「うわっ、このヒキョー者!
チクショー、覚えてろよ!」
テルは、わあわあとチンピラのような捨て台詞で医局を駆け出していく。
意識した途端、喉元の鬱血が熱を持ち始めた気がして、テルは存在を認識してしまったキスマークをネクタイを締めて隠した。
結局この後、完全に鬱血が消えるまでの一週間。
テルは、四宮のしつこい尋問から逃げ回る羽目になったのだった。
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これやれば、毎日ネクタイ締めるよな。