■ エヌジョウ ■
過労気味の身体は悲鳴を上げていた。かと言って、おいそれと休みを取ることができない北見にとって、明日は実に貴重な休日だった。
疲れた身体は現金なもので、明日が休みだと知ると急に怠くなる。呼び出しが入る可能性があるとしても、もう身体の方が緊張を保っていられないのは確かだ。
身体を蝕むような疲労に勝てるはずもなく、北見は普段よりずっと早くにベッドに入ってしまう。年齢はとりたくないものだと身体を横たえながらも、重い目蓋をようやく降ろせることに安堵を感じたのだが。
そうしてしばらく――時間にして二時間くらい――夢すら見ずに安眠していた北見は無粋にたたき起こされた。
がなり立てるインターフォンの騒音で。
ピンポピンポピンポー! 実に愉快な音を立てる。この深夜に。
あの可憐なインターフォンをここまで騒々しく鳴らせる人間など一人しかいない。
北見は、重すぎて中々持ち上がらない目蓋を手のひらで何とか押し上げて、寝起きで自由に動かない身体に渇を入れて起き上がった。何よりも眠気にも勝る怒りがそうさせた。
「……」
無言で玄関扉を開けると、案の定――
「あ!
きたみせんせー!」
暗さでよく見えなかったが、北見には相手の顔がぱあっと音を立てて輝いたように見えた。まだ半分夢の中にいるのか。
「こんばん――」
それが二の句を継ぐ前に首根っこを掴んで、部屋に引きずり込む。
相手――テル――は、ひゃあ、とか間抜けな声を上げて転がり、北見は静かに扉を閉めた。
「……ってて。
もー、きたみせんせーランボー」
玄関で転がされて座り込んだまま、テルは一人でけらけらと笑い出す。
これはもう、確実に酔っている。疲れと寝不足で頭痛すら感じ始めた北見には、これ以上癇に障るものはない。
「うるさい」
「あー、きたみせんせー、スねてんでしょー」
テルは、北見の重低音が聞こえているのかいないのか、「キャーコワーイ」とかどう聞いても棒読みな悲鳴を上げて肩をすぼめた。
「またまた〜、飲みに誘ってもらえなかったからスねてんでしょ?
か〜わいいんだからも〜」
一人だけ陽気で楽しそうなテルのことはどうせ相手できないのだし、もう放っておいて、自分はとっとと寝もう。
そう結論して、寝室に戻ろうとした北見が、酔っ払いの横を通り過ぎようとした時、背後から腰を掴まれて引きずり倒された。
「……!」
反射的に手を着かなければ、フローリングに打ち付けられるところだった。
「テル! おま――っ」
悲鳴代わりに罵声を浴びせようと振り返る北見はさらに押されて、背中に壁を叩きつけられた。
「こっの……!」
ここまでされて完全に頭に血が上った北見が殴りつけようと腕を振り上げた瞬間、馬乗りになったテルから頭突きを食らう。
訂正、頭突きのような勢いの、キス。
(勢いがつきすぎて、キスと言うか衝突としか言いようがないのだが)
「……っ!」
北見の唇は無理やりこじ開けられて舌を差し込まれる。
テルからのキスはそんなに珍しいことではないが、普段は触れる程度の簡単なキスばかりで、こんな積極的なキスは珍しい。
しかし。
「酒臭い! 離れろ!」
酔っ払い特有のアルコール臭が尋常ではない。だからこのバカみたいな陽気なのだろうが、吐く息どころか、髪の毛の先からも臭ってきそうだ。
そもそも、疲労回復のための睡眠を邪魔された挙句、酔っ払いの世話をさせられるだと? ばかげてる。
北見はテルを力任せに剥がした。
せめて酒の臭いさえなければ、まだ少しは寛容に対応できたのかもしれないが。
「やーん、きたみせんせーのいじわる〜」
口を尖らせた蛸口で、手を伸ばして抵抗するテルを足蹴にして引き離す。だが酔っ払いの力とは恐るべし、北見の腕力にすら拮抗している。
「うるさい酔っ払い!」
「きーたみせんせー」
「こっの……!」
最終的に、北見の苛立ちは頂点に達した。
寄りかかって体重をかけてくるテルを軽く突き飛ばした隙に立ち上がり、いきなり転ばされてきょとんと目を丸くしているテルの襟首を掴んで引きずった。
「うっわ……! なに、ちょっと……きたみ!」
風呂場のドアを開けて、そのままテルを洗い場に放り込んだ北見は、後ろ手で扉をきちんと閉める。
「いっ……てぇ……ちょっと!
もおー、さっきから、ランボーじゃないですかぁ!」
苦情はそのまま綺麗に聞き流して、浴槽の蓋を開ける。翌日洗うつもりだったが、どうも疲れで風呂の湯を捨てることすら忘れていたらしい。しかしそれが幸いした。
北見はぶうぶうと文句を垂れるテルの後頭部を背後から鷲掴みするなり、勢いよく浴槽に沈める。
「ぶわっ……!」
ばしゃあん、と派手な音を立てて上がる水しぶきとともに、暴れだすテルの上半身。
北見は頭を浮かせようとするテルの力を上から完全に押さえ込んで、湯の中から出ないようにする。両手もひどく暴れるが、そんなものは肘と空いた手で抑え付け、さらに膝で腰を固定すれば、北見とテルの体格差があればほぼ完全に封じることができる。
「……っぶ! ちょっ、がっ! きたっ……みっ!」
必死で暴れながら喘ぐテルを冷めた目で見ながら、北見は静かに言い放つ。
「あんまり暴れると肺に水が入るぞ」
ぴたりと動きが止まる。
それでも北見の力が緩むこともなく、テルは浴槽の縁を支えにゆるゆると頭を浮かせた。
「あ……あの、北見せんせ……
ちょっ……あんまがぼっ…しっ、死ぬ!」
「心配するな。それくらい分かってる。
言っておくが、大人しく出来るまで続けるぞ」
その一言で、今度こそ完全にテルの動きが止まった。
息すら殺しているような鎮まりように、睥睨の眼差しで見下ろしていた北見はため息を吐いてからそっと手を放す。
テルは、跳ね上がるようにして身体を起こし、そのまま浴室に倒れこみながら激しく咳き込み始めた。それが収まらないうちに、北見は再び彼の襟首を掴み上げて乱暴に上体を起こさせた。
「少しは酔いが冷めたか?」
唾棄すると、テルは顔を上げた。酔いに濁っていた目が、少し色を取り戻したようにも見える。
彼はそれから数回咽せてから、北見のズボンを掴んだ。
「北見……」
咳き込みすぎたせいでか、眦にうっすら涙が浮かんでいるが、北見にはもっと違うもののように感じた。
見上げてくる熱っぽい顔色も、酸欠とも酔いの上気とも雰囲気が違う。
北見がその色を図りかねているうちに、彼の足元から立ち上がったテルが、伸ばした腕を首に回して抱きついてきた。その勢いで、北見の身体は背後の壁に押し付けられる。
そして次の瞬間には唇が塞がれていて、不思議なことに、先ほどあれだけ不快だったアルコール臭が大して気にならなくなっていた。
「…………っ」
少し冷たい唇が触れることでじんわりと熱を持つ。
触れた感触を楽しむように、何度か角度を変え、触れては離れ。下唇を唇で挟まれて舌を差し込まれる間も無抵抗でいると、強請る仕草で歯列をなぞってくる。
北見がテルの腰を抱いてゆっくりと壁伝いに座り込むと、彼はさらに上体を乗り出して凭れてきた。
「ふ……っ、ん」
北見の舌を探り出して、柔らかい愛撫を施す。相変わらずたどたどしい下手糞な舌使いで、何とか北見の熱を引き出そうと必死になっているのが分かったので、わざと舌を逃がすと少し強めに歯で捕らえられた。
大人しく、何度も吸われて甘噛みされている間、テルの両手は北見の寝巻きの裾をまくり上げようとするし、駄々を捏ねる子どものように下半身を押し付けてくる。
「……きた、み……っ」
熱を帯びた口付けにも乗り気ではなさそうな北見に、テルは焦れて顔を上げた。
「きたみ、きたみ……きたみっ」
訴える声には涙が混じり、それしか知らないように何度も何度も名前を呼ばれる。
「……寝かせろ」
寝巻きを弄る手を掴んで止めさせて、北見は彼の熱気から逃げようと身を捩った。
しかしそれを許さないテルは、体重をかけて北見の手を振り解くと、自らのネクタイを放り投げた。
「おいテル!」
制止しようとする北見を無視して、さらにシャツも脱ぎ捨てる。湿った上半身で北見の胸に圧し掛かり、その首筋に口付ける。肌に跡を残しながら首から耳の下、鎖骨に降りながら、自身のスラックスのファスナーを降ろす。
「こら……っ、お前……」
抗議は再び口付けで封じられる。
時々掠める下半身への接触に、封じ込めていたはずの欲情が湧き上がってくる。
「……きたみ、なあ…」
その声に艶を感じてしまった瞬間、北見は貼りつくような喉の渇きに襲われてしまった。
まずい、と告げる理性に反して、身体は明らかな反応を示し始めている上に、それを助長させるようなテルの手の動きが、北見の情を一層煽る。
テルはもう本能のまま、必死に北見を誘っている。まるで子どものように拙い仕草であっても、何度も重ね合った肌は無条件にそれに応えようとしているのだ。
考える合間にも、テルの愛撫を刺激と変換した快感がちりちりと理性を焦がす。
濡れて冷えたはずの肌が熱いこと、その温もりが自分の肌に馴染んでしまうこと、そしてそれが北見に快感をもたらしている。下半身から意識を逸らそうと、彼は身を捩った。
しかし、
「すき」
悪い事に、耳に直接吹き込まれた囁きに驚いて、彼はうっかりテルの痴態を直視してしまった。
露になった下生えと、確かな反応を見せる下肢に異常なまでの興奮を覚えると、ああ畜生と、北見は胸中で唾棄する。
男の本能として、疲れた時こそ人肌が欲しくなる。そして、酒の制で理性の吹っ飛んだテル。
酒と疲労のもたらす効果は、相乗なんてもんじゃない。
冪乗だ。
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n乗。累乗あるいは冪乗(べきじょう)。
【べき じょう】 って響きが尋常じゃない。
北見とテルは、動物と子どもと言うスタンス(で書いてる)。