* 916 *




医局にて。
その日は、朝から静かだった。秋の気配のように密やかに。
気持ちの良い、少し冷たい空気が朝一杯に広がっていた。



「きーたみ先生ー。
 お誕生日おめでとーござーいまーす!」

水島胡美が諸手を上げて北見の注意を惹くのを、当の本人は視界の端に認めていた。直視はしないように半身をずらしたことは、本能が告げた防衛本能だったのかも知れない。そして、そのままの流れで無意識にさっと彼女の前から避難しようとしたのだが、さすがに相手の隙のなさを侮っていた。

「北見先生ー。こっちですよー!」

身長の差をその両手でカバーしてるつもりなのか、北見の視線でばたばたと左右に大きく振って注目を促す。残念ながら横目で周囲を眺める限り、水島の後ろで控えている韮崎、青木の麻酔科トリオの期待に満ちた眼差し、後で詳しく事情を聞く必要のある岩永、遠巻きに見物している片岡、沖。ほとんどの外科の医師が見守る中での総スルーはさしもの北見にも難しい。

「………」
「今日お誕生日ですよねー。
 医局の皆でプレゼント用意しました!」

逃げ場を失ってしまった北見の沈黙はなどものともせずに、水島はひとりで楽しそうにテンションを上げていく。

「でもっ、普通に渡すのじゃあ面白くないので、
 二つ用意してみましたー!」
「いや、その気持ちだけ受け取りたい」
「受け取ってくれるんですね!
 わー、選んだ甲斐がありましたー!」

きゃーとか喜ぶ水島が北見の制止を聞く訳がないのだが、この辺りで、北見は一番最初にとっとと医局から逃げ出していなかった自分の采配を恨んだ。

さっと合図を出した水島に応えて、韮崎がどこからかカートを引いてやってくる。荷台に乗っているのはラッピングされた箱。ただしサイズが問題で、冷蔵庫が入っていてもおかしくないほどの大きさだ。
それがガラガラと音を立てて水島の隣に並ぶと、彼女もまたどこからか小さな箱を差し出してきた。

「このブルーレイ用ディスク5枚組と、
 これの、どちらかを選んでくださいね!」

『これの』 の所で、荷台の箱を示してにっこりと首を傾げる。

「………聞きたいんだが……」
「あっ! 両方欲しい、なんて欲張りはだめですよー!」

バカみたいに大きな箱の中身が何かは言わないことに、明らかな意図が見え隠れしている(いやもう透けて見えている)。この場にいない人間の数と、周囲の表情を見れば考えなくても分かる。

北見は長い長いため息をつく。

「分かった……
 有り難く、そちらを頂こう」

指差した先は、水島の手に乗っている箱。

「えー。こっちですかー?
 北見先生もっと良く考えてください!」
「ああ、良く考えて、録画用のディスクを切らしていたことを思い出した。
 今日は録りたいものがあるから、ぜひそちらを頂きたい」
「ディスクなんて、帰りに電気屋さん寄れば買えるじゃないですか。
 チェンジするなら今だけですよ!」
「結構。
 今は何よりそれが欲しい」
「そんなこと言わずに……」

「今日一番欲しいものが手に入った。
 どうも有難う。解散しなさい」

言葉の途中で遮って突き放すと、さすがにそれ以上深追いはしてこなかった。
約二名が不満そうな表情をしてるのを目の端にとどめて、北見はもう構う気はないことを態度で示すために医局を出て行く。

朝っぱらから面倒ばかりを起こしてくれるのは、まあ麻酔科が多いのだが、いつにない寂しさを覚えてしまうのは、少なからず近寄ってくる秋の気配の影響ばかりではなく、静かすぎる医局にもあったのではなかろうか。
そう言えば朝から『声』を聞いていないことを思い出して、北見は今出てきたばかりの医局の扉を振り返った。
けれどまた一瞬後には、面倒に巻き込まれる恐れを忌避して足を速める。





それが午前中の話。




       *********




インターフォンの音に、読んでいた雑誌から北見が顔を上げたのは夜の10時近い頃だった。

「…………………」

こんな時間に訪ねてくる人間なんて、宅配の予定でもなければ限られてくるのを知っている北見は、多少うんざりと眉を顰めた。
執拗なインターフォンの癖は、その時の気分で微妙にタイミングが変わる。
それすら熟知してしまっている相手の、今の顔すら思い描けるほどになってしまった北見にとって、相手の用事も何もかも予想がついてしまうと言うのに。

「……何の用だ?」
「………ゥス」

ぶすくれた子どもの顔が予想通りだったことに笑うべきか呆れるべきか。
玄関扉を開けたそこに立っていたテルは、油断すれば頬を膨らませて拗ねる寸前の顔をしている。

「飯食ったのか?」
「………食ってきた。ラーメン」

まだ部屋に通すどころか、玄関にすら入れていない。
こんな顔をしている時は、いつもの傍若無人ぶりはどうしたことか形を潜めてしまう。上がれと、言葉か態度で示されない限り動こうとしない。北見は最近になって、これが拗ねているだけではなくて、さらに意地になっている時の表情だと悟った。

「じゃあ、もう用事はないな」
「……何だよそれ」
「お前が家に来る用なんて、飯タカる以外にあったか?」
「なっ……!
 何だよその言い方! いっつもいっつも、オレが……」
「給料日前の一週間欠かさず飯食いに来やがって、
 否定できるつもりでいるのかお前」
「………………」

まったくもって否定できません。

うっかり黙ってしまったために、さっきの威勢があっと言う間に萎んでしまったテルは、溜息を吐く北見を上目遣いで見上げるしかなかった。

「もういい。面倒臭いから入れ」
「……お邪魔シマース」

ダイニングに通され(と言うか、勝手に通っ)たテルは、きょろきょろと辺りを見回していた。何か忘れ物でもしたかと北見が訝る内に、彼に向き直って至極真面目な、不安げに眉を曇らせた顔で問うてきた。

「ケーキは?」
「あるかそんなもん」

「そんなもん、って何だよ!
 誕生日にはケーキがなきゃだめだろっ!
 ああ、チクショウ、やっぱり買ってくるんだった!」
「買ってくんな」
「なにおぅ! 大体、北見なあ!
 何で朝、あっち選んだんだよ!」

「……………………」

やっぱりそうか。

的確に。北見の脳裏に、朝の出来事が甦る。
しかし、彼は嘆息を堪えてつとめて平静を装った声で短く告げる。

「何の話だ?」
「とぼけてんじゃねーよ! 水島先生から貰ったろ。
 大きな箱と小さな箱のどっちか、を!
 何で、大きな箱の方選ばなかったんだよ!」
「……ああ、ちょうど欲しかったものだったから貰った。
 いやあ、本当にあれは助かった」
「そ、う、じゃ、なくて!
 あそこは普通、大きな箱選ぶところだろ!」

地団駄を踏んでヒステリックに叫ぶテルを面倒臭く思う反面、面白いのも事実だ。

「説明もされないものを選ぶ危険は冒したくない」
「フツー、分っかるだろ! オレが入ってたのに!」

ああ、分かってた。

「だから選ばなかったんだろうが」
「きっ、北見のあ――」

ヒステリーが怒りに摩り替わる瞬間、北見はテルの襟首を掴み上げて足払いをかけた。
北見は瞬間、浮いたテルの身体を難なくソファに押し倒す。

息を詰めたテルの上半身に乗り上げて、身体を起こそうとする前に容赦なく体重をかける。だがそうするまでもなく、顔に息がかかるほど間近な距離で北見の視線に射抜かれれば、テルは抵抗できなくなる。

「……っ !!」
「分かってるのかお前?」
「きた……」

「どんな目に遭っても、文句は言えなくなるぞ」

一瞬でテルの顔に朱が上った。

「だっ……で、でも……っ、
 北見、の、誕生日だ……し……」

真っ赤な顔をしているくせに、必死で訴える目が困惑の色に染まっている。
それが面白くて、ついからかってしまう。

申し訳なさそうに首に巻きついているネクタイの結び目に、北見は人差し指を差し込んだ。
それを狼狽えるテルの目の高さまで持ち上げて、

「ブルーレイのディスクなら、さぞかし高画質で残せるだろうな」

「………きた……!」

堪らず声を上げるテルの口を、北見は接吻けで封じてしまう。

展開についていけないテルの咥内をねっとりと舐め上げて、舌を絡め取る。軽く歯を立てて牽制されてしまうと、逃げることすらできずにすぐに降参。完全に手放しで北見に主導権を渡してしまう。
息継ぎの間すら与えないキスに、知らず涙が滲む。それでも北見は許さず、満足するまで好きに嬲り尽くした。

「……っは」

唇が離れた後は、唾液で口元を汚すテルとは対称的に、涼しい顔で口元を拭い去ってしまう北見。
何をするにしろ、二人の関係はこんな感じだ。精一杯のテルに対して、北見はまるで何もなかったように冷静さを取り戻す。それも一瞬で。
さっきまで奪いつくす勢いで求めてきたのに、気が済めばあっさりと突き放される。

それでもテルは振り回される。北見にはいつになったら慣れるんだと言われるが、慣れで何とかなる問題じゃないと思う。


「それで?」

自分の口の中を執拗にかき回した舌で、口で、まるで病状を訴える患者を促す聖者の声を紡ぐ。

ああ、こいつは悪魔だ。

テルは、深呼吸と一緒に溜息を吐き出した。彼が息を整える間、北見は片眉だけを器用に持ち上げる。

「誕生日、おめでとございます……」

いまいち呂律の怪しい舌で何とかそれだけを呟いた後、テルはどっと疲れを感じてがっくりと項垂れた。








「そう言えばあの時、
 四宮も見かけなかったが、どこにいたんだ?」
「………えー?
 ああ、自分がプレゼントになるってうるせえから、
 みんなで掃除道具室に放り込んだ」
「…………なるほどな」

ソファで二人、何となく動くのが億劫で長くなったまま。テルは北見に下敷きにされていたが、北見が横に半身をずらしてくれたお陰で潰されずに済んでいる。
納得と言うよりは、呆れた様子で呟く北見の首に、テルは両腕を絡めた。
少し余裕を取り戻すと、すぐに悪戯心が湧いてくる。


「で、北見って40いくつになったわけ?」


「よし分かった、撮影会始めるか」



それが、どんな災害を呼ぶのか知っているくせに。


「ひぃいっ、ごめんなさいもう言いませっ、うわやっ――!
 あっ……! きた、っ……み――!」





誕生日、おめでとうございます。









◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆

北見先生は本当にむっつりだなあ!