◆◆ き ん の さ ら ◆◆




唐突に始まった。
始まりと言うものは大概はそんなもので、確かに当たり前と言えばその通り。
しかし、眉を顰めるに充分値する出来事であると、この時の北見は思ったのだ。



「きっ、北見、先生!
 お願いがあるんスけ、ど……!」

昼の休憩の時間、一人になったところを上手く突かれて(恐らくタイミングを計られていたのだろう)捕まった北見は、顔を真っ赤に染めたテルから見上げられて戸惑った。

いや、戸惑うと言うよりは、不審がった。
この不器用な部下からの頼みごとなど縁起でもないと眉間に深い皺を刻んでいると、テルは緊張感に耐え切れずに、耳まで紅潮させた顔と震える声で告げてくる。

「あのっ………、しばらくの間、その………
 ………泊 めて、くださ い…………」

最後の辺りになると顔を俯かせた挙句に尻すぼみになって聞こえなかった。

「…………………」

北見は黙ってじっと一回りも小さな部下を眺めていて、それは彼が不安になるまで続いた。
結局テルは覚悟を決めて顔を上げるしかなく、その時の北見の表情ときたら、先ほどよりもっと険しく難しいものだった。ああこれは断られるなと、綱が切れて行く音をどこか想像する。

「……構わん。来い」

すみませんと口を開いた瞬間に、滑り込むような声がして、思わず舌を噛みそうになった。

「ほんとっ?」
「疑わしいと思うなら最初から訊くな。
 そう言う態度なら来て頂かなくても結構だ」
「うそうそ! 嬉しーですありがとうございます、よっ、北見大明神!」
「……ありがたがってるように聞こえないからもう黙って良いぞ」

北見が意外に子どもらしい反応を見せたので、テルもぱっと笑顔を見せる。
そのすぐ後に、医局の面々が昼の休憩から帰って来て騒々しくなったので、二人は慌てて離れ、結局、話の続きは帰りに持ち越されてしまった。

北見はロッカーで帰り支度をしていたテルを呼び止めると、他に誰もいないことを確かめてポケットの中から出した鍵を放り渡した。

「遅くなるから先に帰ってろ。中のものは適当に食って良いが、物を壊したら弁償だ」
いいな、と上から圧力がましく指示する北見を見上げて、しばらく瞳を瞬かせていたテルだったが、

「……北見はメシどうすんの?」
「家に帰ってから適当に済ますさ」

「待ってて良い?」

妙なことを言うなと思いながら、それで保つんなら好きにしろと告げると、子どもは笑いながら待ってると答えた。そう言えばいつもは家に連れてくる時は同伴なものだから、一人で待たせることはなかった。

「なるべく早く帰るから、大人しく待っていろ」

子ども扱いされることを嫌う子どもは、むっと機嫌を損ねた顔で鍵をポケットに捻じ込んだ。
失くすなよ、と念を押せば、ますます膨れっ面を見せたテルを置いて仕事に戻った北見は、直後、楽しいことでもありましたか? と思い出し笑いを岩永に指摘されていた。








「おかえんなさい」

鍵のかかっていない玄関を開けるのは、もしかしたら初めてだったのかも知れなかった。
玄関扉の前で鍵をしばらく探してしまってから自嘲気味に思いついた。

そう考えると北見は急に照れ臭くなって、帰宅をテルに気付かれないようにできるだけ慎重に扉を開けた。しかし北見の努力空しく、まさしく玄関のまん前で待っていたテルに見つかった
その時のテルときたら、人を見つけた捨て犬のような目で、尻尾があったら間違いなくちぎれんばかりに振り回しているだろう人待ち顔が、妙に似合っていておかしかった。

帰宅を誰かに迎えられることは今までない。
酷く慣れないそのふわふわした空気を逸らすように、北見は父親を迎える子どものごとくに今にも抱きついて来そうなテルの頭をがしりと掴んだ。

「家具は無事だろうな?」
大した言葉ではないつもりだった。
だから、自分の愛想のない帰宅の挨拶に機嫌を損ねるのだと思っていた。

が。

「……ぁっ!」
「『ぁっ』……?」
「いやっ、何でもないっです!」
「お前の脳みそが、ニワトリ並みでないことを願う。
 『遅くなるから先に帰ってろ。中のものは適当に食って良いが、物を壊したら』、
 ……続きを言えるか?」

つい、職場でやるように腕を組んで仁王立ちになってしまうのは、このこどもに関わる以上、それこそ一生でも付き纏うおまけなのかも知れない。

「…………………『弁償 だ』」
「良かったな。少なくともニワトリ並みだと言うことを証明できた。
 どうした? 喜ばないのか?」
見下ろす北見の前で顔を上げることのできないテルが、恐らく脂汗を垂らしているだろうことは想像に難くない。どちらにしろ覚悟をすべきなのは自分の方だろうが。

「……あ、……ぁの……」
「何だ? 喜べない理由でもあるのか?」
「うぅ……、あ、あのぅ……
 す、すす、すんません、花瓶落として割って、絨毯水浸しになりました!」


ゴッ……!


「いでーッ !!!!!!」
「こっちの方が痛いわ。掃除はちゃんとしたんだろうな」
「い、いちおう……」

まるで職場のやり取りのごとく、一気に許容ラインをぶち抜いた苛つきを喉の奥で噛み締めながら、現場検証のためにずかずかとリビングに入る。その後ろから所在なさげについてくるテルは、判決を待つ被告人のごとくに項垂れている。

まあそのリビングと言ったら、決して前言を信用できるものではなく、まさに今しがた引っ繰り返したばかりの様に散らかっていて、それは北見の想像をはるかに越えるものだった。

「………あ、あの、……ごめんなさ、ぃ…………」

後ろから延びてくる謝罪の言葉も、北見を虚しく通り過ぎて行ってしまう。
北見は、視界を閉じた黒い世界の中で平衡を保って立ち尽くしている。

「き、……きたみ、せんせ………?」

後ろから少し近付いて、少し屈んだ子どもが見上げてくるのを北見は気配で感知していた。
北見はぱっと目を開いて、こどもの襟首を引っ掴んで引き摺って歩き出した。
状況を把握しきれなかったテルが慌てて喚き始めたのはすでに寝室に入った所だったから、北見はそれらをまとめてベッドに突き飛ばして逸らした。

「なっ……! 何すんすか、いきなり!」

上半身をがばりと起こして、さすがの扱いに怒鳴り声を上げるテルだったが、北見はその前にすでに馬乗りになっていた。上から圧し潰されるような圧力に怯んで、テルは理不尽に対して爆発しかけた怒りを喉の奥で飲み込む。
「弁償、だ」
「えっ、あ、いや、それは、ちゃんと………」

「先月、給料の前借を誰にしたんだ、お前は」
「うっ………!」
「今月、財布忘れた時に貸した金もまだ帰ってきてなかったっけな」
「……ううっ!」

痛いところを突かれて意気を挫かれる。

「これでチャラにしてやる。
 しっかり励め」
「えっ……、あっ! うわちょっ……!」

不穏な台詞を短く告げて、北見は狼狽えるテルの上に覆いかぶさった。
反射的に抵抗をする一回り小さな身体を押さえつけて無理やり唇を奪い、強引に舌を差し込む。
乱暴とも言える扱いに漏れる抗議の唸りも、口の端から唾液を伝わせる頃には甘く色を変え、馴らされた身体は期待に弛緩する。

北見は、突っぱねるように胸元に充てられていたテルの指から力が抜け、あまつさえ引き寄せるように首に回ったところでほくそ笑み、唇から抜いた舌で、喉元まで汚す唾液を舐め上げた。

「………ぅ……、あっ」

濡れた舌にぞくりと走る感触が快感からくるものであることは否定できない。馴れさせられた身体は自然に力と思考力を失い、結局、北見の思い通りに存分に『励まさせ』られた、テルだった。





「それでお前、いつまでここにいるつもりなんだ?」

散々好き勝手にした挙句、ぐったりとベッドに沈むテルを放置して自分だけシャワーを済ませた北見は涼しい顔でそんなことを言う。テルはと言えば、まだ涙の滲む目元を真っ赤に充血させた恨みがましい表情で北見を睨み付ける。
「……一週間か、長くて十日くらい……だと…」
「そう言えば、そもそも何で家に来たんだ?」
顔にかかる髪を振り払って、タオルをベッドに放る。

「えー…、言ってなかったですっけ?
 アパートの壁が老朽化で壊れたんで、いっぺんブチ抜いて補強工事するからって、
 部屋にいられないんスよ」
「なるほど。
 となるとその間は、この家のものを破壊し続けるわけだな。先が思い遣られる」
「ちょっと! 何っスか、その言い草!」
心底憂鬱そうに呻く北見の言葉がこちらも心底心外だったのか、テルは上半身を起こして怒鳴り声を上げた。

「今日一日で実績を作っておいて何抜かす」

冷静すぎる口調で指摘され、怒りに水を差されるどころか、いっぺんに意気を挫かれたテルは再びベッドに沈む。北見はつまらなさそうな顔で鼻を鳴らして、寝巻きに袖を通した。

「工事が早く終わることを願うばかりだな。お互い」
「?」

北見の意味深な一言に首を傾げるも、邪魔そうに足で風呂に入れと押し退けられたテルは、北見の言葉の真意を問う隙を失った。けれど、それも翌日にはその身をもって思い出した。と、同時に、彼もまた北見と同じ意見であることを強く願うばかりだった。

ちなみに、翌日の破壊物は食器だった。









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タイトルは、はんすかろっさの「幼年時代」のにじます。
国語の教科書で読んだことあるひとも多いと思うんですが、何かもうあの表現の美しさは一生涯の憧れ。
しょうもない話のタイトルに使ったことに、今は海溝よりも深く反省してます。