‥ 「朔」 ‥




差し出された北見の手の中のネクタイをテルは一頻り眺めてから、受け取ったそれを適当に折ってポケットにねじ込んだ。

「どうも、すんませんでした」

聞いているのかいないのか、北見は無言でリビングのソファに腰を下ろした。
挙動に対する頓着の割に、車で自宅まで連れて来たり、部屋に通されたり、忘れ物を手渡されたり。
お陰でテルは、「捨ててくれても良いです」の逃げ口上を使う隙がなかった。或いは北見はそれを回避したかったのかも知れないが、とりあえずはここまでは北見の思い通りになったわけだ。

「じゃあ失礼します」

手短に頭を下げて、テルは早々に暇乞いをする。北見はと言えば相変わらずで、一貫して黙したまま視線を寄越すこともしなかった。
疎ましがられていると言う空気は感じない。だがそうすることで、明らかにテルの好奇心を挑発している。
それでもテルは、その好奇心に蓋をする決意をした。宣言通り、この家を後にする。そして、もう二度とこの家にくる機会はないし作らないのだと自分に言い聞かせた。
しかし、これが本当に最後の最後だと思うと、どうしても我慢できない感情が溢れ出た。それまで抱え込んでいた鬱屈したもの、しばらく育て上げた疑問、単純な怒りと、何に対するものか自分でも分からない憤り。

そして、感情の大部分を占める、蟠り。


「北見先生」

己の性分を激しく呪いながら呼びかけるテルの言葉を、相手は一瞥だけで返した。
聞く気はあるのだと安堵し、テルは少し距離を詰めた。とは言っても、ソファに座っている北見から2メートルは離れていたが。

「本当に、用事これだけだったんスか?」
「……意味が分からんが?」
「ネクタイ取りに来させるためだけに、オレをここまで連れて来たんですか?」

「間違えるな。
 『お前の用事』だ。オレには関係ない」

「……オレが来るのメーワクなんだろ」
「そうだな。だがこれで終わりだ」

全てが否定的に、肯定的に打ち切られることにテルは怒りを感じるより悲しくなった。北見に疎まれてはいないし、明確な嫌悪も感じられない。何故かそれだけははっきりと分かる。ただ、興味を持たれないだけ。そのことが妙に悲しく思えた。
先程の勢いが急速に萎んでいくと同時に、病院で聞いた四宮の最後の言葉がリフレインする。明日また彼にどんな皮肉を聞かされるのかと、目を三角に釣り上げた姿をぼんやりと想像したテルだったが、北見は、ほんの一瞬視線を彷徨わせたテルの思考を完全に読んだのか、

「四宮に伝言を任せたのは余計だったようだな」

まさに今、脳裏に浮かんだ人物の名前を唐突に指摘されて驚いているテルの様子に確信を得て、北見は僅かに口の端を持ち上げた。

「なんで、四宮……?」

「なぜ?
 四宮の言うことなら素直に聞けるだろうからな」

北見の言葉は突拍子もなかった。

テルと四宮を良く知る人々は、二人は仲良しだと揶揄する、もしくは皮肉る。それは、テルの指導医である北見なら身をもって知っているはずだった。少なくとも、北見はくだらない冗談や皮肉で相手の感情を逆撫でることに悦びを見出す下種な人間ではない。
しかし、棘のある発言にはらしくもない嘲りすら込められている。それだけに、あまりにも唐突過ぎる北見の態度の変化についていけなかったテルは、反論すら思いつかぬまま、ぽかんとした表情で呟く。

「それ、何かの冗談ですか?」
「別に、波風を立てさせるつもりはない」
「いや、いっつも立ってますけど……?」

むしろ、顔を付き合わせる度に嵐が吹き荒れている。ことに、北見が絡むと四宮はひとが変わることは既に周知の事実だ。
北見がそのことを指摘しているのかと思ったが、ニュアンスが微妙に違う気もする。
中途半端に混乱するテルを他所に、北見は最初と打って変わって饒舌になった。

「要らんことに巻き込まれるのはまっぴらご免だ。
 次からは、酔っ払ったら、ちゃんと四宮の家に行け」
「ちょっ、ちょっと待てよ!
 何で、そこでも四宮が出てくるんだよ!」

「この間みたいに間違えられても困るからな」
「だから! 間違えるって何のことだよ。
 『この間』って、酔っ払って押しかけたこと?
 何で四宮が――」

「ここに来たのは、どっちに対する当てこすりだったんだ?」

「先に聞いてるのはオレだろ!
 訳分かんねーことばっかり言って誤魔化すなよ!」

まるであずかり知らぬことを非難される憤りに、テルは荒れる感情に任せて怒鳴る。
だが北見はそれきり口を噤んでしまい、気まずい空気に耐え切れなくなるのは、結局テルの方だった。

「……その、こないだ……ここに来た時、酔ってたから、
 何かすげーメーワクかけたかも……って言うのは、悪かったと思ってる。
 真夜中だったと思うし、騒いだりしたんなら、本当にその……ごめんなさい」

我慢することをやめてしまった北見が許してくれなくても、謝罪と、それまでの寛容に対しての感謝はしなければならないと、テルは悩んでいた。

頭に血が昇っていたあの日はとても相手のことを考えていられる余裕はなかった。しかし、時間が経って頭が冷えていけばいくほど、北見の態度の裏に潜んでいただろう当時の自分の奇行や無礼の可能性に、ひたすら後悔が湧いていたのも事実だった。


「でも、これだけは言っとくけど、北見の家をホテルとか別荘とか、そんな風に思ってるわけじゃなくて、
 その……あの時……北見とすれ違い多くて、あんま、逢ってなかったから。
 顔、見たかったり、ってのは……ちょっと、思ってた」


こんな時でなければ健気だと思えたかも知れなかったが、今の北見にはその言葉を額面通りに受け取る気にはなれない。

「言う相手を間違えられてもな。
 四宮にでも言ってやれ」

「さっきから何で、四宮四宮って……カンケーねーだろ、あいつは」

「ああ、オレには関係ないな。
 関係を持ったのはお前だ」

要領を得ないテルに向かって、北見は苛立つ気分で唾棄した。
これで極端に反発するか、硬直するかどちらにしろ、決定的な最後になるのは見えていた。テルがどちらの態度を見せても、北見の取るべき行動はただ一つだと決めていた。

テルは、北見の言葉を反芻していた。何度も何度も頭の中で繰り返したそれを、それまでの会話の内容と結び付ける。
直結するには到底足りない語句を、可能な限り脳内で補完してひねり出した答はとんでもないものだった。


『 四宮 と 関係 を 持っ た 』 ?


「誰がっ? 北見がっ !!? 四宮と !!!? 」

「誰がだ! お前が自分で言ったんだろうが!」

「オレっ !!? オレが誰と! 四宮と !!?
 ってか、そんなのいつどこで言ったよ! 聞いたこともねーよ!」

目を剥いて傲然と反論する姿を見る限り、テルが嘘を吐いているとは到底思えない。


「お前が、六日前、ここを出る直前に、言った」

「六日前?
 ……酔った日?」
「その前だ」

憮然と吐き出す。
そう言えば良く良く思い出してみたら、酔っ払って押しかける以前から、北見は黙って機嫌を損ねていた気がする。日常のささやかな会話にすら棘を含んだ態度だったからこそ、余計に酔っ払った勢いで押しかけた覚えがなくもない。

つまり、その六日前とやらのやりとりが引き金らしいと、指折り数えて記憶を引っ張り出す。

「………六日って……
 今日って何日?」
「7日」

北見は、聞かれたことについ脊椎反射で答えてしまう。尚も両手の指を折り伸ばして、記憶を辿っているのかぶつぶつと独り言を呟いているテルだったが、顔を上げると同時に「あっ!」と、大声を発した。
怪訝そうに窺う北見の視線を何故か上目遣いで返すと、テルは言い難そうにもごもごと口を動かした。

「…………あのぅ……怒らないって約束してくれますか?」

「なに?」

僅かに跳ね上がった眉に、北見の怒りの片鱗は容易に予知できた。
それの及ぼす人的被害の大きさは知っているし、回避できるものならそうしたい。だがテルには、恐怖や罪悪感や何やらと言った感情を遥かに上回る――それは喜びにも似た――甘い疼きを堪えることの方が難しい。
さすがに、取っておきの手品の種明かしをする晴れがましい手品師とは行かなかったが、彼の言葉の続きを待つ北見のために、テルはそっと告げた。


「あれ……ウソです」

「――――なに?」


「4月、1日……だったから」


10秒ほど、北見は一声も漏らさなかった。それどころか、テルが心配になって声をかけようか迷うほどの時間、完全に時が止まったかに身体を硬直させた後、やっと長い長い溜息を吐いた。
ソファの背にだらしなく凭れて、盛大な嘆息を漏らす北見の表情は額に置かれた手の平に阻まれて窺うことはできなかった。だが、部屋の空気が明らかに和らいだことに、テルの緊張はすっかり解れた。

「………くそっ」
「北見、怒ってる?」

首を傾げるテルの表情に最早、怯えも恐れも怒りも存在しない。
いつものように、ネジが抜けた締まりのない笑顔を浮かべているだけだ。たったそれだけのつまらないことに心から安息を感じてしまう。

さて、果たして、北見にとってどっちが『つまらないこと』だろうか。

とりあえず「別に」とだけ突き放すのだが、軽口でも否定でも何でも良いから即座に返せなかったことが、暗に負けを認めたように感じてしまう。テルにとっての大事は、単純な勝ち負けではないことも知っているが、どうしても主導権を手放しで譲り渡したくはなかった。


『終わらせる時くらいは、テルに選ばせてやろうと思っていた。』


だから、安易に選択権を与えないためにも。



「北見せんせー」

声を掛けられるまで、北見は自分の座るソファの足元の傍らに腰を下ろしているテルに気付かなかった。思った以上に近くにいたことよりも、甘ったれた呼び声が耳に馴染んだ事に驚く。それは取りも直さず、そう呼ばれないことの方が不自然であると言う証拠だ。

「キゲン直してくださいよ。オレ、頑張っちゃうから」

言いながら、首に両腕を絡ませて頬擦りをする小さな(いや失礼、大きな)子ども。
子どもらしい体温を心地良く感じると、現金なもので、それまでささくれだっていた気持ちの全てが払拭される。


「でも、北見先生でも嫉妬したりするんですね」
「何だと?」
「オレが四宮に獲られると思ったんでしょ?」

「……………」
「無言で首絞めないで下さいよ、こえーよ!」

自分と同じく、相手も調子を取り戻したらしく、軽口が勘に障るレベルに達してきた。
穏やかだった気分が別の意味で苛立ってくるので、とりあえず苛立ちを紛らわせるように首を絞めておくが、これに限っては本人の宣言通り、『頑張って』もらうことで憂さ晴らしすることは決定済みだ。

北見はとりあえず、思いもつかずに摂り損ねた夕食の準備にでも取り掛かるつもりで立ち上がろうとした。
けれどそれは叶わず、不意を突いて身体を押された北見は為す術もなくソファに倒れこむ。

「なん……」

文句を上らせるより早く、テルの唇に塞がれる。
しばらく感触を楽しむだけの口付けが離れた後、目元を潤ませた笑顔と目が合った。

「へへっ……久し振り」


締まりのないその顔を、幸せな、と呼ぶことは、自分の脳みそも大概緩んでしまっているのかも知れない。

そう思いながらも、北見もまたそれ以外に表現しようのない笑みを浮かべ、久方ぶりの濃い目のキスをしばし堪能するのだった。













ハッピー ・ エイプリルフール ?










4月バカネタってことだったわけで。ギャグオチと言うか、オチをつけるなと言うか。
イントロ部分に日付を提示するシーンもあったんですけど、そこでオチ割れるからやめました。