テルが目を覚ました所は、幸いにも――いや、不幸にも。見覚えのある場所だった。
この、素晴らしく上等で寝心地の良い(自分の家の万年床や仮眠室のベッドが比較の対象では致し方ないが)広さのベッドと、心地良いノリの効いたシーツ。鼻をくすぐる独特の香りを、肌で知っているテルは、枕に頭を預けたまま首を傾げた。
どう考えても、ここは北見の家らしい、と。
目覚めは良好だった。
カーテンで遮られている陽光は大分高まっているらしく、強みを帯びた濃い影を、ゆらめくその端に映し出している。今日も天気が良さそうだと、呑気に思いついてから、テルはそろそろと上体を起こした。
それから自身の姿を見下ろしてみる。
胸元を緩められたシャツ。ベルトを抜かれたスラックス。どちらも、救い難い皺が入っていたが、テルには、それよりも自分が未だ先日の出勤時と同じ服装でいることが不思議だった。北見邸を訪れて、前日と同じ服装でいることはない。
その理由を考えるのは甚だ不本意であるし、今は必要ないことなので、わずかに紅潮した頬を引き締めて、テルは精一杯頭をフル回転させる。
そして、昨夜の記憶は、ある場面からふっつりと消えていることに気づいた。
『…………? ゆうべ……は?
皆で 呑んで、て………?』
かくり、と。
右肩に頬がくっつくほどに顔を傾ける。
ビールをある程度やっつけて、酎ハイに手を伸ばしたところまで覚えている。
『……………………………???』
だが、自分がなぜこの部屋にいるのかが解らなかった。
昨夜は、安田記念病院の若手医師(有志)で集まった。
テルを筆頭に、整形から青木、麻酔科から韮崎、水島。お馴染みの顔ぶれなので、当然四宮もいた(青木に誘われたらしい)のだが、生憎四宮は待機医なので、そこは面白くなさそうに、ウーロン茶をちびちび飲っていたのが大層愉快だった。
翌日が非番なのも手伝って、一人ペースが上がり続けるテルを、青木たちが心配そうに見ていたのも朧気ながら覚えがある。
実際、テルは一時間待たずに酔いつぶれた。
問題は。
それ以降の記憶がすっぽりと抜け落ちていること。
青木達が気を利かせたところで、病院か上手く行って自分のアパートか。
北見のマンションなんて、近寄るどころか、思いつきもしないに決まっている。
だとすると、自分が、ほろ酔い加減の、千鳥足で、来てしまった以外に考えられない。
顔面からさあっと血の気が引いて、頭上からつんとした痛みまで感じたテルは、慌ててベッドから飛び降りる。
時間は十時前。
自分は非番だが、北見は昼からの出勤だった事を思い出したのだ。
誰よりも早く出勤する北見は、昼出勤でも姿勢を崩さない。
「やっと起きたか」
苛立ちを抑えた声は、殊のほか低く、静かで、聞く者の身も心も竦ませる力を持っていた。北見は、慌しく開いた寝室の扉を一瞥し、それきり興味なさそうに視線を引き戻した。乱暴な手つきでネクタイを締める、衣擦れの音が響く。
出勤支度をしているのだろうが、それも大幅に時間を狂わせているに違いない。少なくとも、もうこの時間には北見は病院にいるはずだから。小さく肩を寄せて恐縮したテルは、そろそろと、遠慮がちに呟いた。
「あ………の、昨日……は、?」
無視されるか、鼻を鳴らされるか、どちらにしろ気分の良い態度をとられるとは思っていなかった北見が、不快そうに視線を合わせてきたのが、少なからず意外だった。
しかし、明らかに不機嫌を隠しもしない渋面で吐き捨てる口調に、想像以上に状況が悪い事に、テルは遅れて気付くのだ。
「記憶がなくなるまで呑むな」
北見はぴしゃりと告げると、テルを牽制するように続けた。
「真夜中に、非常識なインターフォンの音で叩き起こされた。
何しに来たか知らんが。お陰でこのザマだ」
「………すいま、せん……」
「反省してる振りはもう飽きた。黙ってろ」
「そういう言い方ないだろ!
そりゃ、アンタに迷惑かけ――」
「迷惑だと思うなら来るな」
さすがに、反論しようと上げかけたテルの声を、北見は、静かな唾棄を滑り込ませるようにして遮った。
「そんな、の……しょ、しょーがねーだろ、酔ってたんだから!」
北見は皮肉に口許を歪めた。
面白そうな眼差しに、明らかな『意味のある』笑みを宿らせて、
「なるほど。すると、酔っていれば人を殺しても『仕方ない』で済ませられるのか」
「捻じ曲げるなよ、そんな事言ってんじゃないだろ!」
「そうか? 同じことだ。そうでなければ、いずれそうなる。
少なくとも、他人の迷惑を顧みなければ、な」
「………………」
「お前も少しは手間を省くことを覚えたらどうだ。
仕事を覚える前に、無駄を減らしてみろ」
投げられた北見の嘲笑は、テルには簡単には反論はできなかった。
「そ………そりゃあ、酔ってたし、無理やり押しかけて、
迷惑もかけたのはわかるし、悪かったって思ってっけど………!」
「ここはお前の避難場所でも別荘でもない。
俺のプライベートだ。土足で踏み込まれるのは迷惑以上に不愉快だ」
あくまでも、テルの言葉を遮り続ける北見は、それで最後とばかりに背を向けた。
ソファーに掛けてあるジャケットを羽織り、足元の鞄を取り上げる。
そうして、冴えた視線を投げてくる。
「だったら!
………だったら、最初から入れなきゃ良かったんじゃねえか!
勝手に初めたのはアンタで、続けてんのもアンタだろ!」
「………もう良いか? お前に構う時間が惜しい」
北見は、これ見よがしに時計を気にした。
この男の言わんとする意味が読み取れなくとも、いくらテルがひとの気持ちに鈍いと言っても、こう言わざるを得ないほど、北見の態度は一貫して冷えたものだった。
北見は玄関に向かうため、大股でテルの前を通り過ぎる。
その姿が背中に変わらない間に、テルは怒鳴り声を上げた。
「来るなって言うんなら、二度と来ねえよ!
それで良いんだろ!」
北見は歩調を緩めることなく玄関に着くと、寝室の前から動けないテルにも聞こえるように、奇妙なほど優しい声で告げてきた。
「そう願いたいもんだな」
「…………!」
返す言葉もなく立ち尽くすテルに鍵を投げつけると、北見は郵便受けに入れておけとだけ告げ、そのまま部屋を出て行ってしまった。
泣くのか怒るのか、それとも笑うのか。
持て余す感情の意味も理由も分からないテルは、ただ、唇を噛み締めていただけだった。
短いですけど、今回はここで。
タイトルでオチてるような気がしないでもない今日この頃。