Drop
どうやら。
どうやら、外科部長にオンナノヒト、が出来たらしい。
とん、と。借りてきた数冊の医学書を揃えて、机に乗せる。
荷物はロッカーに入れてあるから、帰り支度と言ってもデスクの私物を最小限片付けるだけ。それも使っていたボールペンを引き出しに放り込む程度で、相変わらずの惨状にはもう誰も、あの外科部長でさえも小言に飽きていた。
その机の確認を最後にしてから、テルは医局を後にする。
ロッカールームに向かう途中、顔を合わせる医局の面々、ナース、見知りや担当の患者、果ては見舞い方にすら声を掛け、また掛けられながら、テルは笑顔を浮かべていた。
頻繁に――酷い時は週一間隔で訪れていた外科部長の自宅に、この頃誘われない。
好き好んで訪れていたわけではない。
それこそ執拗に誘って(断じてこんな控え目な表現が間に合う方法ではないが)くる、北見の誘い文句(ネタとしては勿論、豪勢な夕食が大部分を占める)にあっさり釣られてしまうのが常だったが、その見返りは翌朝の体調不良が物語る。
お誘い久しく、かれこれ一月ほどにもなろうか。
ここしばらく北見とまともに口を聞いていないのも、職場で必要最低限以上の会話をしないのも、プライベートでさえ往復で会話が途切れてしまうのも、会話数だけ見れば、四宮にさえ負けてるんじゃないかと思うのも、どれも今に始まったことではないので気にも止まらなかった。
テルにしても、夕飯は何にしようかと久しぶりに悩んだことからようやく思い出したので、結局、彼にとっても『その程度』の相手なのかも知れない。
だから恋人が出来たと考えるのは乱暴のように思えるが、相手は動物並みの対話術しか会得していない北見だ。
人一倍多忙で、人一倍不器用なこの男は面倒がって女の相手をしない。それくらいならと、手ごろな捌け口をテルに求めている始末だった。
そんな男だから、一ヶ月もテルを必要としないのは、要するに。
『カノジョが出来たってことじゃん』
嬉しそうに胸中でひとりごち、ロッカールームのドアを開けた。
ロッカーも大概汚かったが、白衣だけは大切に着ている(つもりだ)。
テルにしては丁寧にハンガーに白衣をかけて、ディバックを取り出す。
北見の相手が誰であれ。何にしろこれでやっと解放されるのだと、鼻歌でも歌ってしまいそうなほど浮かれた気分で、最初の議題であった『本日の夕飯』に思いを馳せる。
少しくらいは奮発して、外食も良いかも(せいぜいファミレス)などと、ウキウキとバッグに袖を通した。
正直言って『北見のカノジョ』には興味はあるが、わざわざ自分から首を吊られに行くこともなかろう。
いずれ、目敏い院長あたりが嗅ぎ付けてネタになるのだろうから、それをしばらく待とう、と。
珍しく利口なことを考えながら、テルはロッカーを閉めた。利口ついでに、今日の夕飯もちゃんと考えた。
オムライスだ! (デミグラスソースの)
ガッツポーズよろしく、テルが決意をしたちょうどその時だった。
パタン………
明らかに、テルにはできそうにないほど静かに扉が開いた。気持ちの良い衣擦れの音をさせてロッカールームにするりと身体を滑り込ませたのは、渦中のひと。
北見先生のご登場である。
「………あ。
お疲れ……さまシた」
何となく気後れしてやや窄まり気味の声で告げるが、北見はあの細い眼差しでテルを一瞥しただけだった。
腹の虫の居所でも悪いのかと思って(まあその大部分の原因が自分であるから)、テルは早々に退散することにした。長居は禁物とばかりに、早足で北見の隣を通り過ぎる。
しかし、ドアまであと一歩と言うところで背後に強く引っ張られた。
「うわっ!」
短い悲鳴を上げる。
突然のことだし、左上腕を捕まれて背後に引き摺られているため、身体がどう抵抗して良いのか解らず、気づけばロッカーに背を押し付けられていた。
強かに打ち付けられた衝動的な痛みに、抗議の声を上げようと口を開いた瞬間。
押しつぶされるほどに身体を詰めてきた北見の唇が覆いかぶさってきた。
「―――っ!」
しまったと思う間もなく、滑り込んできた舌にあっさりと主導権を奪われる。
「………ン! んんっ………ぅ……っ」
強く掴まれている両腕に力がこもり、無意識に身体が強張る。
呼吸する余裕も隙間も与えられずに口中をまさぐられ、たっぷりと熱のこもった唾液を飲み込まされるが、危うく咽込みそうになるその性急さに、くらくらと眩暈さえ感じた。
「……ん、ふ……っ……」
たっぷりとテルの口の中を弄んだ後で、北見はようやく唇を浮かせた。
唾液の糸を顎に垂らしながらも、精一杯息を吸い込むテルが落ち着く間も与えず、北見は再び唇を合わせてくる。
逃れようともがくテルの顎をしっかりと捉えて今度は、じっくりと味わう脳が痺れるようなキス。
時折角度を変えて、滑り込ませている舌で歯列を撫で上げられ、唇にまで施される愛撫の甘い感触に、知らず誘い出された舌を絡め取られ、甘噛みされてしまうと、もう北見の白衣の裾を力なく掴むことしか出来なかった。
それどころか今にも崩れ落ちそうなほど、腰が痺れて力が入らない。
たっぷり三分はそうしていたろうか。
テルの唇の端から落ちる唾液の筋がシャツの襟に染みを作るまで、好きなように口腔を犯し続けてていた北見が、やおら離れた。
「……ッ………」
整わない呼吸をするテルの唇と膝は震えていて、眦には涙が滲んですらいた。恐らくしばらくは自力では立てまいと判断して、北見はテルをロッカーに押し付けるように凭せ掛けると、そのままふいと踵を返して、ロッカー室を出て行ってしまった。
遅れて、北見を呼ぶ看護婦の声が、遠く耳に届く。
テルはひとり、静まり返ったロッカー室で上ずった呼吸を繰り返しながら、震えに落ち着かない指先でぎこちなく口許を覆った。
何度目かの瞬きに、目尻の涙がぽろりと落ちる。
収まりきらない鼓動を押し込めるように唾を呑み込み、ロッカーに凭れたまま、ずるずるとへたれこんだ……
周りの音が消えてしまうほど、鼓動が激しく耳元に響くなか。
「……………やりふぎだろ………」
未だ熱っぽい呼吸の残る声と上手く回らない呂律とで、何とかそう、呟いたのだった。
外科部長が一月ほど、病院に泊り込みで学会の準備をしていたらしいことをテルが聞いたのは、翌日、当直明けの北見に拉致されて、大切な非番をたっぷり報復に充てられた後日の話になる。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
私的にこれ、ギャグの分類に入るんです。