尺 度
夕飯はパスタだった。
外科部長が手ずからミートソースとカルボナーラを作ってくれて、自分は随分浮かれていたのだろうと思い直す。でなければリビングでこんな長い時間、無為に過ごすなどあり得ないのだから。
「……………………」
テルは突然。本当に不意に、何をするでなくソファを背もたれに、フローリングに直接体育座りをしている自分の姿のそのあまりの寂しさに気付いてしまった。
家の主、外科部長様と言えば、お隣の書斎で打ち込み仕事に徹していらしゃっていて『何でも好きに使え』と、当たり前のように残す捨て台詞は、別に今に始まったことではない。
―――ない、が。
テルは立ち上がった。
大股で書斎に向かう。
そろりとノブを回して開けるも、外科部長は気付かない様子で熱心にモニターをご覧になっておいでだった。
途端、むっと表情を険しくしたテルが、開けてしまった書斎の扉を軽くノックすると、北見は緩慢な様子で頭をめぐらせてくる。その眉間に僅かながら皺が寄っているのは、不機嫌からではなく憮然と。
しかし、その表情で用件を促そうとするのは高慢に他ならないとテルは思う。
「オレ………帰んます」
ならば負けじと、こちらも不機嫌を悟られないように『憮然』を装って告げる。思い立ったら駆け抜けるテルが、一拍置いてもそこに居るのは、つまり返事を要しているのだろう。
それをどちらで返したら良いのか悩むより――いや、そもそも悩む素振りも見せずに、北見は嘆息とともに吐き出した。
「もう少し、我慢してろ」
まるで自分が融通の利かない子どものような扱いに、さしものテルも(と言うか当然の権利として、?)カチンと来る。
我慢なら、もう二時間も意味もなくしてきた。
ダイニングを出る時に「少し仕事を片付けてくる」と、そう言っていたのに『少しの仕事』で二時間も待たされた。
では『もう少し』はどれくらいのつもりなのか。
もしや、一時間か?
いや、そもそも『待たされる』。これが気に喰わない。
自分が北見に譲歩してまで期待しなければならない事実に反して、彼から与えられる答えはあまりにも一方的過ぎる。
大体、帰りに明日も仕事なのに「飯を食わせてやる。来い」の一言で連れ去られた。
飯は食わせていただいたのだから、用事は済んだはずだ。と言うのに「待て」 と言われて二時間。
一体何を 『待っていろ』 と言うのか、知らなくも気付かなくもないテルは、それでも待っていられるほど大人ではない。
大人らしく『待って』いて、美味しくいただかれてたまるか。
何一つ足りない言葉を埋めようとしない北見に、テルはせめてもの意趣返しを謀る。
「我慢したらどうなるんスか?」
言い捨てて、書斎の扉を開けたまま玄関に向かった。
何とか走り出さず、早足にもならずに済ますのは骨が折れた。
転がしていたバッグを立ち止まらずに拾い上げて、つかつかと玄関に辿り着いたテルは、スニーカーを引っ掴んで手早く紐を結ぶ。北見に引き止められる前にと必死で。
しかしテルには、そこまでしても北見が引き止めに来るとは思えなかった。
怒りが思考を支配しているせいで、すぐ近くの気配には気を配れなかった。背後から盛大な溜息が聞こえて、テルは弾かれるように振り向いた。
見れば、書斎からお出でになった外科部長が、彼のすぐ背後からこちらを見下ろしておられるではないか。その、あくまでも態度を崩そうとしない頑なな北見に、テルの感情はなお煽られる。
ふいと視線を返し、早急に家を出るべく立ち上がろうと腰を浮かした、まさにその時。
腰に腕が回された。
捕らえると言うよりは、支えると言うような力加減だったが、驚きにテルの身体は固まってしまう。
片膝を立てた態勢で、北見はテルの耳元に口を寄せた。
「今帰るなら構わんが、その代わりに明日は覚悟しておけよ」
噛んで含めるようなその物言いに、テルの背筋がさぁっと冷える。
――即ち。『明日、病院で犯す』 と、言っているのだ。
北見はそれきり何も言わず、するりとテルから身体を離して立ち上がった。立ち去りはせず、固まったままのテルの頭を上から見下ろしている。
「…………………」
しばらくそうしていて、内部葛藤に区切りをつけたテルが突然立ち上がる。履きかけのスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てると、部屋に後戻る。
北見の横をすり抜ける時、真っ赤な顔で怒ったように一言告げた。
「先に寝てるからな!」
そそくさとリビングに消えたテルに、北見は笑いを噛み殺し、応える。
「すぐ行く」
夜はまだ始まったばかりなのだ、し。
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アホだこいつら。